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zoom RSS 聖書が示す「神」の対象性と身体性 U

<<   作成日時 : 2013/12/31 23:58   >>

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神の身体性について、ストア派の考え方はモルモン教に通じるところがあるような・・・。
<ストア派によれば、神は可視的宇宙に内在する。他方で、存在するものはすべて三次元の「身体」を持たねばならない。したがって、真の存在である神こそ「身体」を持たねばならない。「からだ」、すなわち「生き物」としてのこの宇宙全体が神に他ならない。ストア派のこの論は、ヘレニズム期にはあまりに周知のものであった。本書がストア派の名前を挙げずに、匿名で言及するのはそのためである。本書はそのストア派の神論に反対する立場である。その点では、例えば新プラトン主義の創始者プロティノスの反対論(「エンネアデス」2,4,1)と同じ論調になっている。>(荒井献、大貫隆 編訳『ナグ・ハマディ文書 チャコス文書 グノーシスの変容』〔岩波書店〕p539 ※この引用した文は大貫隆氏による「解説 シルワァノスの教え」の一部)
ストア派に於いて、神が身体を持つという考えは、私の意図するところとは反対に「宇宙=神」の汎神論につながっている。

神の「内在」と「遍在」についてもう少し考えてみた。
私は「神の内在」、「神の遍在」ではなく「神の霊の内在」、「神の霊の遍在」として受け取る。どうしても「神」を主語にする必要があるとすれば、「霊を介しての神の内在」、「霊を介しての神の遍在」として語る。私はイエスを通して内在されたのではなく、イエスに充満された「神の霊」を通して内在されたのだと観る。そして今も「神の霊」を介して遍在しておられる。マタイ10:20の「父の霊」というのは、イエスに対する聖霊および、使徒においても子を介さずに直接、父なる神から送られる霊である。問題は神の「体」の在り処であり御座所である。その「体」はあくまでも御座である「天」に在る。その「天」は宇宙空間を意味せず、超越を象徴的に示している。神の「体」が時空に制約される物質的なものでない以上、神の御座所は時空の制約を受けないところであるから(使徒7:48〜50他参照)、聖書の中でいちばん適した言葉は、「われわれは神のうちに生き、動き、存在する」(使徒17:28)で、それは汎神論(pantheism)ではなく、また、神がすべてに内在するという意味の汎内在神論でもない。逆にすべてが神に内在するという意味での汎在神論(panentheism)である。神と万物とは「不可分・不可同・不可逆」の関係である。その「不可逆」の面を「天におられる」といった表現で示すのである。ちなみに小田垣雅也氏は『知られざる神に』(創文社)の中で次のように述べている。

<神の完全性とは(中略)両極的なものだとハーツホーンは主張する。つまり絶対的、恒常的な存在者であると共に、自己超越的という意味で相対的で自己創造的存在者でなければならない。言いかえると、神は原初的本性であると同時に結果的本性でなければならない。そしてハーツホーンが言う意味の汎在神論はこのような事情であろうと理解される。それは神を世界の創造者であり世界を超越する者であると考えて、その結果、世界への神の内在を否定する有神論ではないし、世界と神を同一視し、神を世界に遍在すると考える汎神論でもないという意味で汎在神論である。汎在神論の神は、永遠不変であると同時に時間的流転的であり、超越的であると同時に内在的であり、世界に含まれると同時に世界を含んだ至高の人格的存在者であると言う。(中略)それに対して西田幾多郎は汎在神論を別様に理解している。(中略)神は絶対無である。この絶対無が他のもろもろの個物をあらしめ、それ故にまたそれは絶対の有でもある。このような意味で神は万物の創造者であり、被造物としての世界は神に依存する。また逆に、被造物としての世界があるから神がある。そして西田が言う汎在神論(西田の訳では万有在神論)とはこのような事情を指している。神は絶対無として、すべてのものがそれによって在らしめられるという意味で、すべてのものは神の中にあるのである。>(p130〜131)

小田垣は、ハーツホーンのプロセス哲学の神理解における「両極・二極」性に普遍論争以来の二項対立の思考から脱しきれていない、不徹底さを指摘し、それと比べて西田哲学の方を評価しているようである。単純に見れば、西田哲学では「万有」が「神」に「内在」しているということであって、「神」が「万有」に「内在」しているという論ではない。そして自分もその方が聖書的だと思う。重要なことは創造主と被造物との「不可逆」の関係性であり、ホワイトヘッドの「世界が神に内在しているということが真であるのは、神が世界に内在していると言うことが真であるのと同じである。」とか「神は世界を超越していると言うことが真であるのは、世界は神を超越していると言うことが真であるのと同じである。」(p142)といった命題は根本的に誤りである。

ハーツホーンは下記のとおりハートショーンと読まれもする。彼の思想的欠陥は喜田川信氏の指摘のとおり、汎神論と汎在神論との区別が曖昧であること。
<かれによれば、神以前に素材としての物質はなく、逆に神なしに物質(被造物、世界、宇宙)は存在しない。両者は同時的なのである。そこでハートショーンは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であるとさえ言うことが出来る。創る神は宇宙のプロセスの源泉または原因であり、宇宙はプロセス全体もしくは結果なのである。そしてこの時原因と結果とは神の二つの側面であると言っている(中略)。もしそのように創る神と宇宙とは一つの神だとするなら、汎神論(Pantheism)と万有在神論(panentheism)との区別を明確にすることが出来るのであろうか。またそこで真の意味の創造をいうことが出来るのであろうか。(中略)時間にしても、時間と空間が被造物の存在形式であるならば、神は時間を創ったというより神御自身が時間の中にあると言ってよいであろう。>(喜田川信著『神・キリスト・悪』〔新教出版社〕p20)

また、西田哲学の最たる問題点は「絶対無」という表現であり、思考を突き詰めれば、エックハルトの神秘主義ではないが聖書的「神」も「無」と言えようが、それは信仰告白の表現としては不適切である。
とにかく、「すべてのものが神の中にある」という意味での「汎在神論=万有在神論」(PANENTHEISM)なら私は受け容れられるが、その場合の「内在」は「内に在る」ではなく「内から在らしめる」という意味に、「遍在」は「遍く在る」のではなく、「遍く在らしめる」という意味に解したい。もしも万物に内在する「神」がいるというなら、それは「神」本体ではなくその「霊」であり、遍在もまた然りである。

関口佐和子さんの「モルトマンの宇宙的キリスト論」という論文では、pantheismsについてモルトマンと西田との比較がなされている。
冒頭の「要旨では以下のように記されている。
<ユルゲン・モルトマンは、古代世界は宇宙中心的であったと述べ、エコロジーの観点から宇宙的キリスト論を提唱する。しかし現代における宇宙論は古代のそれとはかけ離れていて、宇宙は果てしもない空虚であるという印象がある。モルトマンの述べる宇宙的キリストはその宇宙に意味を与えることができるのであろうか。モルトマンは、宇宙はキリストの身体であると考える。しかしキリスト論にとって宇宙のすべての力をキリストの支配の中に組み込むのは挑戦である。モルトマンの宇宙的キリスト論は歴史的キリスト論を越えて、自然的キリスト論を展開する。モルトマンは汎内神論を採用する。そしてモルトマンはテイヤール・ド・シャルダンとカール・ラーナーの進化的キリスト論を批判する。モルトマンは宇宙的キリストによる宇宙的終末論を主張する。その際、救いは全体的である。それゆえ実存主義的な個人の精神への探求は不足している。しかし、われわれは希望によって支えられている精神の内面の宇宙において、いつでもキリストと出会うことができるのである。>
「宇宙はキリストの身体」というところでもうひいてしまう。キリストの歴史性が飛んでしまっているからだ。「歴史的キリスト論を越えて、自然的キリスト論」など、全く意味不明である。「キリスト」という称号はあくまでも史的イエスと不可分の歴史的概念だからだ。それを非歴史化したら全く意味がなくなる。そして本文を読むと、モルトマンの「汎内神論」の非神論性をますます感じる。すなわちこれは聖書が啓示する生ける神についての言説とは思えない。実存的視点の欠如が指摘されているモルトマンならではの思弁である。

遠藤周作氏は宗教哲学者を真似るかのように簡単に神の対象性を否定していますが、「神が人間の認識の客体となり、人間がその主体とならない限り、人間の神認識は成り立ち得ない」のです(三川栄二氏の論文「『神の対象性』における人間の神認識――カール・バルトにおける神学的思惟構造について――」〔明治学院大学キリスト教研究所『紀要』33号(2001年)所収〕参照)。問題は「神の「対象性」を肯定するか否定するかではなく、いかなる意味に於いてなら肯定し語り得るのか?ということです。そしてその答えはバルトに於いては「対象化されない神が、みずからを対象化することによって、人間の前に立ち、そして人間がそのことによって神の前に立つという対向関係の成立を前提として成り立つものであって、神認識の存在根拠と認識根拠とは、この神の自己対象化の中にある」ということです(同上論文参照)。ただしバルトの場合はこれが啓示の三位一体論に基づいて言われるのであり、私はそもそもイエスが神と同本質であることを歴史の面で認めないので、「神人イエス・キリスト」=「(特別)啓示」=「神の自己対象化」といった考え方は受け入れませんが、あくまでも神の側が御自身を対象化し給うことなしに人間が神を認識対象とすることは出来ないという点では同じ考えです。バルトは「神の対象性」を「第一次的対象性=神の三位一体の内部における対象性」と「第二次的対象性=被造物的対象性=啓示における神の対象性」とを区別し、後者の第一のものが「イエス・キリスト」であるとします(同上)。この区別は滝沢克己氏が批判的に捉え直して、神人の「第一義の接触」と「第二義の接触」とを区別し、神と人とが「不可分・不可同・不可逆」であると同時に、この両「接触」の関係もこの関係であるとしたのです。
<神は人間に「信仰」を与えることにより、神の言葉を通して御自身を認識させるのであり、これはあくまで、神ご自身から来るのである。>(〜三川氏前掲論文)
以下は野呂芳男氏が自分の元・弟子(?)の小田垣氏を批判している文章である。

<小田垣さんの解釈学的神学は、人間が啓示の外に立って啓示について、あるいは、神について対象的に語ることを拒否するため、神を他者、人格的存在というように、人間の向こう側に立つ一存在とすることを否定する。そこで、小田垣さんによると、神を表現するもっとも適当な言葉は「無」である。これは、有に対立する無ではなく、言わば絶対無であり、すべてのものをあらしめる無、他のもろもろの存在(物)と並んで、その間に介在する一存在ではないが故に無である。(中略)小田垣さんが神を他者や人格的存在という仕方で語ることを拒否する点であるが、私も神を他の諸存在の間に介在する一存在者であるとは考えないが、併し、私は神を一存在者の如く人格的に語って一向に差し支えないと思っている。神が文字通りに一人格者(a person)であるとは思わないが、キリスト教の言うアガペーの神は人格的なもの(The person)であり、人格的象徴(symbols――ティリッヒの使う意味でのそれ)(10)によってでも表現しない限り、表現できないリアリティーがキリスト者の神体験にはあるのではないか。やがて小田垣さんも神学の各論を、即ち、贖罪論や義認や聖化やキリスト者の生活を、あるいは、三位一体論を何らかの仕方で語らない訳には行かないであろうが、その折には、たとえ神を無、あるいは、絶対無で表現しようとも、その無あるいは絶対無の人間に対する愛・恵み・慰め・命令等について語らざるを得なくなろう。そういう信仰体験の事情を、我々は神が人格的であるという主張で意味しているに過ぎないのである。(中略)小田垣さんの「主観−客観図式」による思索への嫌悪は、「我−汝」の人格的逅迄もその図式の中に取り入れ、誤ったリアリティー把握となす点で、我々には賛成できないものである。物体を客観的に把握するような姿勢で、物体ではないところのリアリティーそのものや人格的なものを把握しようとするところに、いわゆる「主観−客観図式」による思索の誤ちがあるのである。(中略)小田垣さんの「主観−客観図式」による思索への嫌悪は、いかなる形においても汝として我々に出会うものの拒否であり、私がここで心配するのは、この小田垣さんの拒否が、いつのまにか人間を逆に「主観−客観図式」の中でだけ思索することに転落するのではないか、という点なのである。人間は「主観−客観図式」の思索では把握し切れない存在であるが、それは人間が何ものかに向って決断する存在、責任ある存在だからなのである。ところが、小田垣さんの思索では、その汝が失われるのであるから、その思索に浸りつつ長い期間生きていると、いつのまにか人間は生の流れにただ浮び流れて行く一つの物体の如くに自分を感じることになるのではないかと、私は危惧するのである。(中略)汝を失った神学は、まさに自己の内面への沈潜を色濃くした自伝に近づく。>(〜野呂芳男氏の論文「神話の季節の再来」)※(10) 「実存論的神学」167頁。

いずれにせよ自分にとって「神」はあくまでも「対向者」である。「神」を非対象的に考えることは信仰生活においてはオーバーランであり(逆に教会教義を正当化する人々の護教論も同様)、そこまで過ぎる前に思弁を止めて然り。コーヘレトも「あなたは義(ただ)し過ぎてはならない。あまりに賢くあってはならない。どうして自滅してよいだろう。」(7:16 月本訳)と述べている。人間社会での「賢さ」は必ずしも神の前でのそれと同じではなく、むしろ信仰の妨げになる。
然るに同時に以下のようなことも言えるのが信仰の理屈を超えるところである。すなわち、わが精神安定の実存的根拠たり得るのは、自分の生死の根源としての神、すなわち生命の源としての神です。結局、この自分という存在、自我・自意識、主体とか実存とかいうもの自体が死して滅びるわけですから、それでもなお、あり続ける「神(との)関係」・・・すなわち自分という個体は無になるが、自分の出所・生命の源である「神」は永遠不滅であるがゆえに、その「神」との原初的関係において現実には「無」でありながらそれでもなんらかのカタチで有り続けることができる・・・それが霊ということかどうかはともかく、対神関係は続くのです。あるいは対人関係も「あの世」で続くのかも知れませんが、形而上学的来世観にはあまり関心はないです。
現在、自分の精神を安定せしめる聖句の第一は、「これ凡ての物は神より出[い]で、神によりて成り、神に歸[き]すればなり、榮光とこしへに神にあれ。アァメン。」(ロマ11:36)、「我らには父なる唯一の神あるのみ、萬物これより出で、我らも亦これに歸す。」(Tコリ8:6.同15:28参照)、「塵は本の如くに土に皈[かへ]り霊魂[たましひ]はこれを賦[さづ]けし神にかへるべし」(コヘレト12:7.ヨブ記34:15、同12:10、詩篇104:29、創世記2:7、同3:19参照)です。

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