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聖書の御神体
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このブログの主たる目的は、「神は霊である」(ヨハネ福音書4:24)という言葉の誤解により、「神」が得体の知れないものであるかのように思う人々に向けて、聖書に基づき、そうではないことを発信することです。

神の「得体」(・・・いわゆる「霊的実体」)は、旧,新約聖書全体を通して人格的存在として明らかですが、その具体性はイエス・キリストとの「父―子」関係において決定的に示されています。伝統的キリスト教はキリストが実体的に「神」を啓示したと言ってきましたが、それは誤りであって、キリストは「父」との関係において「神」を啓示したのです。

三浦綾子さんは、創世記1:26〜28の解説の中で、「神は自分のかたちに人を創造された」ということの意味として、「神は、体をお持ちにならない方(キリストは『神は霊である』と言われたのである)から、神の体に似ているのではなく、その霊性に似ているというのである。だから人間の肉体から逆に考えて、神を人間のような顔形であると思うのは誤りである。わたしたち人間は、神に似た霊性を与えられたのである。つまり神は人間の霊性の原型なのである。」(〜『旧約聖書入門』の「一 天地創造」)と述べています。

「神を人間のような顔形であると思うのは誤り」という見解には(「モルモン教」に対する批判の意味も含めて)賛成ですが、神はいかなる意味においても「体をお持ちにならない」とは言えません。むしろ霊的には「体をお持ちになることができる」ということが「顔」などのメタファーによって示されています。この点が軽視されると「信仰対象喪失感」が生じることにもなりかねません。その点では以下の文言は(・・・「一体」と訳された原語〔=「ホモウーシオス」〕の意味をよく知らず「体」に肉体をイメージしたような、いかにも素人っぽい表現ではありますが、それゆえ率直な点で)共感する部分もあります。

「三位についてはそれぞれ父、子、聖霊の位格であるという点では正統派諸教派と差異はない。 特徴的といえるのが一体についての理解である。一体の部分のそれが何であるかを明確にしない限り礼拝の対象が定まらず正しい神観が得られないとし、即ちイエス・キリストがそれであると明確に示す。」(〜wikipediaの「イエス之御霊教会(教団)」)

赤字部分の是非はともかくとして、その「一体」がイエス・キリストであるという理解は意味不明です。「唯一のイエス・キリストの中にこそ父、子、聖霊の三つの位格が存在している」という「ワンネス信仰」の理屈は、「唯一の神の中に本質(=実体)を同じゅうする父、子、聖霊の三つの位格が別個に存在する」という正統主義教会の「三位一体」説に輪をかけておかしいです。「三位一体」の「一体」(=「同一実体」の略)は「一質」(=「同一本質」の略)とも言える・・・「三位一質」。
いずれにしても、歴史上の人物である「ナザレ人イエス」と、新約聖書が語る「神の子・子なる神・ロゴス」としての「イエス・キリスト」とが混同されています。

「私たちは「霊」というと、空気や霧のように、ただ一様に広がる漠然としたものと考えやすい。しかし霊なる神は、肉眼には見えず無形であっても、霊の眼には『姿』あるかたなのである(民数一二・八)。神は、無形の非物質だが、顔、手足、目や耳、その他に相当する各種の働きをする要因を持っておられる。それは物質的肢体や物質的感覚器官とは異なるが、有機的な働きをするそれぞれの霊的な各要因を持っておられるのである。したがって、霊には霊的な姿がある。(中略)神が霊であることはまた、神が生命であり、人格的存在であることを意味する(「人格」ではなく、本当は"神格"と言ったほうが良いのだろうが)。」(〜「Remnant キリスト教読み物サイト」の「わかる組織神学 神論」の「二 神に関する基本知識」の「(7) 霊であって人格的存在」)

三浦綾子さんの前掲書における、「神は、体をお持ちにならない方(キリストは『神は霊である』と言われた)である」という言い方は不十分であり、不適切であって、どうせ書くなら誤解を招かないように、「霊なる神は、肉眼には見えず無形であっても、霊の眼には『姿』あるかたなのである(民数一二・八)。」といった主旨のことまで言及すべきでした。

私が共感するのは以下の2つの引用箇所。

「神が霊であると言うのは神の同義語の反復であって、神の身体的存在を否定しているのではないのです。神が彼の霊を指示している実例はたくさんあって、神と彼の霊が分かれているのを示しています」(〜キリスト教アデルフィアン派の「聖書基本知識」)

「『神は霊であられる』とイエス・キリストは言いました。(ヨハネ 4:24) 霊者は,人間とは異なる生命形態です。人間の目には見えませんが,体があります。それは『霊的な体』です。(コリント第一 15:44。ヨハネ 1:18) 聖書は比喩表現を用いて,神には目,耳,手があるとさえ述べています。* 神には名前もあります。エホバという名です。(詩編 83:18)ですから聖書の神は,霊的な体を持つ人格的存在です。(ヘブライ 9:24)『生ける神,定めのない時に至るまで王』なのです。―エレミヤ 10:10。」(〜「ものみの塔」〔2004.05〕の「あなたは神を喜ばせることができます」※一部修正あり)

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