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聖書の御神体
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新約聖書では、教会は「キリストの体」であると言われています。では「(父なる)神の体」は何にあたるのでしょうか?・・・この点をこのブログでは考察します。

「神」の得体(・・・所謂「霊的実体」)は、旧,新約聖書全体を通して人格的存在として明らかです。
至高者なる「神」は、創造主として自己を対象化なさり、旧約時代は「ヤハウェ」という固有の名を持つ「イスラエルの神」となり、新約時代は「イエスの父(なる神)」として啓示し自己限定なさいました。
「名は体を現す」といわれるとおり、そのように「成る」ことによって「在る」べき「体」を得られたのです。「体」を軽んじるのはグノーシス主義であり、民衆の魂救済の宗教ではなくエリートの主知主義の哲学です。
聖書の物語としては、創世記18章でヤハウェは「三人の男」の内の一人としてアブラハムの前に顕れたと言われています(これを「三位一体」の根拠に出来ないことは22節以下で明らか)。これは全能の「神」が可視的身体性を取ろうと思えば取れるということを物語っており、人間と等身大といった意味に直解することはできませんが、霊的な意味であれ「神」には人格的対象としての「体」があることを類比的、象徴的に伝えています。それは単なる投影とか偶像崇拝とは無関係です。

三浦綾子さんは、「神は自分のかたちに人を創造された」ということの意味として、「神は、体をお持ちにならない方(キリストは「神は霊である」と言われた)であるから、神の体に似ているのではなく、その霊性に似ているというのである。だから人間の肉体から逆に考えて、神も人間のような顔形であると思うのは誤りである。わたしたち人間は、神に似た霊性を与えられたのである。つまり神は人間の霊性の原型なのである。」(〜『旧約聖書入門』の「一 天地創造」)と述べています。「神も人間のような顔形であると思うのは誤り」との見解には賛成ですが、神はいかなる意味・仕方においても「体をお持ちにならない」とは言えません。むしろ霊的には「体をお持ちになることができる」ということが「顔」などのメタファーによって示されています。

「霊」(ルーアッハ/プニューマ)は「風」とか「息」とも訳され、たしかに「神」は目に見えないので形はないので得体が知れないかの如くですが、比喩ではあれ「神」を人格的存在として観る以上、物体ではなくても、(「霊体」と呼ぶかどうかはともかく)霊的な意味での実体性を認めて然りでしょう。要するに「神」にも霊的な意味での「姿・かたち」がおありになるということですが、それは三浦さんが指摘しておられるような、人間が「神の似像、神の似姿」(イマゴ・デイ)として創造されたという記事を転倒させた曲解によるものではありません。

ちなみに「ヤハウェ自身が霊であるとは、どこにもいわれない。(中略)かくして霊とは、旧約聖書の基本的観念によれば、人間と動物にとって、神から恵みを与えられる生命の担い手である。」(〜『旧約新約聖書大事典』〔教文館〕p1291)と言われています。

コロサイ書2:17の「神の国」の「本体(=実体)はキリストにある」ということを植村正久の三位一体論、「身一つ、靈一つ、此の二が一個の人格のうちに在り」(〜「系統神学」第9章)に合わせて解せば、「神の国(の本体)=キリスト=神(の身)」という図式が成り立つので、「神の国=神の体」と解し得ることになります。その場合、私は「キリスト」を史的イエスとは無関係の、あくまで聖書の超歴史物語の主人公として解します。

これに関連して、八木誠一氏の「神の国=神の支配=(復活の)キリスト」という説を踏まえれば、なおのこと「神の国」は「神の体」であると言えます。「神の支配」という場合は存在というよりも「はたらき」ですが、ポイントは「神の支配そのものと、その支配が及ぶ領域また支配に服するひとびとというニュアンスの差はやはりおのずからあるのであって、後者のニュアンスが強いときには「神の国」と訳したほうがよい」(〜『イエス』〔清水書院〕p157)ということです。但し、「神の体」としての「神の国」は神の「支配が及ぶ領域」ではあっても「支配に服するひとびと」を含まないことは言うまでもありません。

聖書では「父なる神=ヤハウェ」こそが「唯一の神」であり、キリストは「子は親を映す鏡」といった意味での映現者として「御子」であり、人間との仲介者なのです。
「神はただひとり、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエスただひとり。」(テモテ一2:5)
キリストは御自身の「実体」を「父=神」としてお示しになったのではなく、「父−子」という親密なる人格的「関係」において言葉と業を身をもって為すことにより「父=神」をお示しになったのです。ところがヨハネ福音書の記事(14章のイエスとピリポとの対話など)が「実体」的にとられやすい表現をしているために誤解を招いたのです。これは「関係」として解釈すべきです(10:30,38然り)。

「体(からだ)」なしには人格関係を結ぶことはできませんから、キリストがその言葉と業という身体の働きを通して「父=神」との人格的関係を示し、それによって人格的存在としての「神」を啓示したということは、キリストの「体(からだ)」が間接的にではあれ、「神」の「得体」を現したと言えるでしょう。
では何故、キリストの「体」だけが啓示し得たのか?それは聖霊に満ちた神の子の「体」でなければ、その言葉と業によって「父なる神」を現わすことはできないからです。
しかしこれはあくまでも「神の物語」としての「His Story」での出来事であって、実証的歴史としての「History」での出来事ではありません。

新約聖書においては歴史上の人物である「ナザレ人イエス」と、神話における「神の子・子なる神・ロゴス」としての「イエス・キリスト」とが混同されているので、現代においてはこれを区別して理解しなければなりません。

以下は条件付きではあるが共感する文言。

1.「私たちは『霊』というと、空気や霧のように、ただ一様に広がる漠然としたものと考えやすい。しかし霊なる神は、肉眼には見えず無形であっても、霊の眼には『姿』あるかたなのである(民数一二・八)。神は、無形の非物質だが、顔、手足、目や耳、その他に相当する各種の働きをする要因を持っておられる。それは物質的肢体や物質的感覚器官とは異なるが、有機的な働きをするそれぞれの霊的な各要因を持っておられるのである。したがって、霊には霊的な姿がある。(中略)神が霊であることはまた、神が生命であり、人格的存在であることを意味する(「人格」ではなく、本当は"神格"と言ったほうが良いのだろうが)。」(〜「Remnant キリスト教読み物サイト」の「わかる組織神学 神論」の「二 神に関する基本知識」の「(7) 霊であって人格的存在」)

2.「神が霊であると言うのは神の同義語の反復であって、神の身体的存在を否定しているのではないのです。神が彼の霊を指示している実例はたくさんあって、神と彼の霊が分かれているのを示しています」(〜キリスト教アデルフィアン派の「聖書基本知識」)

3.「神​は​体​を​持っ​て​おら​れ​ます。わたしたち​の​よう​な​物質​の​体​で​は​なく,霊的​な​体​です。『物質​の​体​が​ある​なら,霊的​な​体​も​あり​ます』と​聖書​は​述べ​て​い​ます。(コリント​第​一 15:44)」(〜 ものみの塔 オンライン・ライブラリー 「神とはだれですか」)

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タイトル 日 時
「キリストの体」を抜きして「神の体」はあるのか?

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2014/11/18 03:36
「神」という訳語の問題点

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2014/09/09 19:11
聖書が示す「神」の顔

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2014/02/08 17:32
(神の)名は(神の)体を現わす

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2014/01/01 10:29
(神の)名は(神の)体を現わす U

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2014/01/01 09:58
聖書が示す「神」の対象性と身体性

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2013/12/31 23:59
宇宙は「神」の身体か?

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2013/12/31 23:58
「実体」の実際的定義

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2013/12/31 23:55
(続) 「キリストの体」を抜きして「神の体」はあるのか?

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2013/12/31 23:54
神の「体」とは、神の「対象性」のこと

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2013/12/31 23:53
聖書が啓示する「神」は、ストーリーテラーである。

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2013/12/31 23:52
付論:聖書神体論と汎在神論

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2013/12/30 23:57
付論:聖書神体論と汎在神論 U

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2013/12/30 18:56
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2013/12/30 18:30

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