聖書の御神体

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zoom RSS (神の)名は(神の)体を現わす

<<   作成日時 : 2014/01/01 10:29   >>

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旧約聖書において「神」は「得体」が知れているようでいて必ずしも知れていない。それは十戒の第2戒の偶像作り禁止を過剰に意識する傾向があったからだろう。ちょうど第三戒を過剰に意識してYHWHの発音がわからなくなり、アドナイの母音を当てたような背景が察せられる。しかし、旧約聖書もよく読めば「神の体」が比喩的ではあれ示されていることがわかる。そして新約聖書と併せて読めば、ますます「聖書の御神体」が明らかになってくる。
わが人生における最大事の信仰対象が得体の知れない存在では困るわけだが、第一ヨハネの「神は愛なり」(4:8,16)をもって「神」の正体は「愛」だと説く牧師もいる。しかし逆の「愛は神なり」という命題は成り立たない。「愛」は実体概念ではなく関係概念なので、「愛」そのものではなく「愛に満ちたお方」とでも解して然りだろう。これはレトリックであり、象徴的表現としての省略形として受けとめ得る。
旧約聖書において「神」が得体の知れない存在ではなく確固たる存在であることを示す代表的聖句が出エジプト記3章14節の「我は有る」の繰り返しだろう。これを「我は成る」と解したい人々は「神」を静的「実体」ではなく動的「生成」として主張したい考えなのであろう。しかし動的「実体」というのもあり得ないわけではあるまい。また、この箇所を意味不明とし、「神」が人間の認識の領域に制約されるような偶像ではない旨を示すといった解釈をとる人もいるが、私はそうではなく「有る」の自乗表現として、その実在性が強調されているととる。決して得体の知れぬ存在などではないということだ。律法の「神像」の排除は「神体」の否定を意味しない。神殿において「神」が「座する」とか「住む」といった考え方は、見えないにせよ「神の体」を想像することなしにはあり得ない。神の箱は「神の足台」と考えられたとも云われる(関根氏前掲書p206)。旧約聖書の神人同形的表現は信仰体験のリアリティーに基づいているようだ。息子の清三氏は次のように述べている。
<ヤハウェ資料も、やはりその時代の子として時代の概念装置を用いてしか描けませんから、それによって書かれているわけですけれども、しかしそのことで表わしたかったことは、この我々を全く超えた神という存在があるのだ、我々を存在せしめている絶対的な根拠があるのだという、そのリアリティではないでしょうか。そして大事なのは、そのリアリティなのです。>(関根清三著『倫理の探索 聖書からのアプローチ』〔中公新書〕より)

関根清三氏のような旧約学者ではないが、バプテスト派の城俊幸牧師が書かれた「旧約聖書における神名の意味」という論文は、その「序」の冒頭で次のように述べている。
「名は体を表す」という諺がある。特にその実体が名状しがたい場合は、呼称は実体を表現している場合が多い。聖書では、神について多くの呼称が使われている。だが、その中のどの表現が正しいのか。どれがキリスト教の神を表現するのに的確なのかという問いは無意味である。聖書が啓示として人間に与えられているのなら、むしろ各々の呼称が、神という実体のどのような側面を、どのように表現しているのかを考えることが重要なのである。人間の認識能力は有限であり、全ての側面を十全に知ることはできないからである。>
このように「神」の「名」と「実体」性との関係を前提としているこの論文の主旨は私の問題意識と共通するところが多い。「結び」では、以下のとおり「神名」が「時代」的意義を持っていることが指摘され、特に重要なことは新しければいいというものではないということだ。これを私なりに敷衍するなら、聖書の究極的「神名」はペトロが主張した「ナザレ人イエス・キリストの名」(使徒行伝4:10)ではないということになる。なぜなら「イエス」の元のヘブライ語「イェホシュア」は「ヤハウェは救い」を意味しており、この名自体が究極の救い主は「ヤハウェのみ」であることを示しているからである。そもそもペトロがこれを「神名」として語っているとは思えないが、いずれにせよ「イエス・キリスト」はけっして聖書において「神の名」ではないのだ!
<イスラエルの民やモーセに啓示された様々な神の呼称は、一方でそれぞれの意味のみならず、それらの関連性・統一性を徐々に開示した。しかし、他方で時代と共に徐々にその働きを失い、実体(直接的な宗教体験)と呼称の意味との亀裂が大きくなり、「名が体を示さない」ものとなり、言葉が力をもたなくなっていった。それと同時に、人間は神の呼称を忘れ、人類史に開示されたいくつかの神の属性を忘却する一途にあった。さらにそれに伴い、神の恵みであった出エジプトの出来事やいくつかのエポックは、単なる祝祭として祝われ、十戒も実質のない律法(法律)と化し、預言者の言葉は根拠のないものと軽んじられるようになっていった。こうして、神に関することが徐々に空洞化し、「神の真理」がなおざりにされていったといえる。神は人間に対し、その都度歴史を通して、その時代にふさわしい神名を啓示した。しかし、新しい名が、古い名のもつ属性の全てを併せて開示するわけではない。それゆえ、人間は、歴史の目をもって、神の啓示を受け取らなければならない。そうしなければ、人間はその都度の時代にのみ開示された神名、神の属性しか知ることができなくなる。しかも、前述したように、古い神名によって開示されていた神の属性が、新しい神名によって隠蔽されてしまう場合もありうるのである。神名の変遷は、翻訳の歴史ではない。それぞれの神名は、他の語句によっては翻訳されえないものを表現している。それゆえ、神名の一つ一つの独創性を呼称の変遷(歴史性)の中で読みとっていく作業が必要なのである。特に現代日本では、これら多くの神名を「神・主」という語句で概観してしまっている。しかし、それは、歴史的に啓示された神の属性を隠す行為に連なっていることも、私たちは意識していなければならない。「御名を知るものはあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」(詩篇第9章10節)>http://idebyou.blog.fc2.com/blog-entry-25.html

遠藤周作氏や彼に影響を与えている八木誠一氏の「働きとしての神」というのも、私にとっては聖書的神観の一面にすぎない。「神は霊」(ヨハネ4:24)の「霊」は「神の霊=聖霊」とは区別され、この言葉の意味はまずもって無制約性であり、「神は存在ではなく働きである」(〜遠藤周作著『私にとって神とは』)ではなく、「神は存在でもあり働きでもある」ということ、人格的な面と非人格的な面の両面があることを示している。
また、三浦綾子さんの「神は、体をお持ちにならない方(キリストは『神は霊である』と言われた)であるから、神の体に似ているのではなく、その霊性に似ているというのである。だから人間の肉体から逆に考えて、神も人間のような顔形であると思うのは誤りである。わたしたち人間は、神に似た霊性を与えられたのである。」という言葉(〜『旧約聖書入門』)も、「神は、体をお持ちにならない方(キリストは『神は霊である』と言われた)である」という部分には反対である。繰り返すが、「神は霊(である)」(ヨハネ4:24)という場合の「霊」と、「神の霊」という場合の「霊」とは意味的に区別されて然り(※詳しくは、「ブログ紹介」参照)。そもそも聖書が示す「神」を「人格神」とみなす以上、人格的存在は少なくとも「こと」ではなく何らかの「もの」である(「物」ではなく「者」)。ただし「霊」であることと「人格的な存在」であることとは必ずしも矛盾しない(→「『主は霊である』の背後には、『知恵』が人格的な存在であり《霊》である、という理解がある(知1・6、7・7、22参照)。」〔『新共同訳新約聖書略解』p489〕)。
旧約聖書が比喩とは言え「神」について「顔」などの身体的表象を用いて示しているとおり、「神」には何らかの当体が認め得るのであって、「見えない」ということをもって「実体」とか「対象性」が無いと断定することは出来ない。旧約聖書の中には見神の記事もある(出エジプト記24:10〜11他)。そこにどういうメッセージが込められているのかを、現代人は現代人なりの思考枠において読み解かねばならない。
「神の顔」に関しては並木浩一氏が『並木浩一著作集3 旧約聖書の水脈』(日本基督教団出版局)の中で次のように述べておられる。
4 神は人間に応答できる
ヘブライ語では「顔」という言葉は「パーニーム」といって、複数形が使われています。おそらく顔に目や鼻やいろいろな部分があるからだと思いますが、この「パーニーム」という言葉が神にも使われています(新共同訳聖書では多くの場合「御顔」と訳されています)。神が顔を持っておられる方だというのは、神は人間と顔と顔とを合わせて語ることのできる方だ、というところにアクセントが置かれています。神は応答することができる方です。神と応答関係に置かれたときに、人間は神と顔と顔とを合わせるのです。出エジプト記三三章11節は、神は友が語り合うように、モーセと顔を合わせて語られた、と記しています。神も顔がないと、人間に応答することができないのです。それでは神はどんな顔をなさっているのだろうか。こう考えるのは聖書が予想しない擬人的な発想であって、適当ではありません。同じように、神には御姿、つまり「かたち」があります。モーセは神のかたちを見ると、民数記一二章8節は記しています。モーセが神のかたちを見ることと、モーセが神と顔を合わせることとは、まったく同じです。新共同訳には「主の姿を彼は仰ぎ見る」と書いてありますが、口語訳聖書では「主の形を見る」となっています。神は「かたち」を持っておられる。それでは神の形はどんな外観なのか、人間に近いのか、などいろいろなことをすぐに想像したくなります。しかしそのように考えるのは、神様の顔はどんな顔かと想像するのとまったく同じで、聖書の言わんとするポイントを突いていない、そういう意味で不適当な発想です。
5 神は感覚的に受けとめられる
神が形を持つとか、顔を持つということは何を意味するのでしょうか。第一に、人間が感覚を働かせ、神を受けとめることができる、ということです。神は決して人間の感覚と無関係な抽象的な原理ではないのです。教義的な原理は人格を持ちません。それは人間の感覚と無関係な、抽象的で非人称的な原理です。それとは反対の本質を言語的に表現したのが、「神は顔を持たれる」「顔と顔を合わせて語る」です。
6 神は感覚を超えた他者
本質的な要素の二点目は、神は人称的であり、その意味で感覚的でありながら、自分の感覚を超えた「他者」であるということです。これが先ほど述べた他者感覚です。自分の感覚に訴えてくるけれども、他者を自分の感覚の中に取り込んだり閉じ込めたりすることはできません。ですから、他者なのです。この意味で神も他者です。人称を持った他者を自己の感覚と同化できないという意味で、他者は感覚を超えた存在です。その聖書的な表現が「顔」なのです。「神の顔」は、われわれの感覚を超えた他者の現れの極限的な表現であると言ってよいでしょう。
7 神が顔を持つことの逆説性
人は「顔」を合わせて、他者の本質にふれます。「どんな人か、顔を見るまで分からない」という言い方を、われわれも普通にします。顔は、私たちがその人の顔を見るときに意味を発揮するのです。言い方を少し変えれば、神が顔を持たれるのは、人が神の顔を見ることによって神を認識するためです。もちろん、人間が神の御顔を直接に見ることはありえません。聖書によれば、たった一人、モーセが神と「顔と顔を合わせて」語ることができただけです。モーセだけが神の顔を見ることが許され、また「主の形を見る」ことが許されたのです。ですから、神が顔を持たれるというのは大変逆説的なことです。神は人間におのれを見させる。しかし人間は神の顔を見ることはできない。矛盾です。これはどういうことなのでしょう。神は人間に対して人格的な関係を持ちたまい、人間はそれに対して応答することが神から求められる。人は神の御顔を見上げて応答します。それを行わせるのが「神の顔」です。しかし、人間の側から自分の感覚の中に神を取り込んでいくことはできない。ですから、常に神の方からの呼びかけに人間が応えるということです。そこに逆説性の根拠があります。十戒に戻りましょう。「交読文」には「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず」とあります。これは、顔の逆説性を指し示す意味で非常におもしろいと思います。「わが顔の前に」と言うからには、人間が神様の顔を確認しなければ意味がない。しかし人間は神の顔を見ることができない。非常に不思議な表現ではないでしょうか。(中略)
真面目に言って、神の御顔が向けられるとき、私たちの顔が確かなものにされるのです。ここにも人称の互換性に通ずるものがあります。「御顔」がしっかり立てられることによって、「私の顔」もしっかりと確かなものにされるからです。この応答がなかなか意味深いのです。
8 詩編四二、四三編における「顔」
(中略)「交読文」による文語訳の四二編11節は、「御顔」ではありません。我なおわが顔の助けなるわが神を、ほめたたうべければなり。と書かれています。「御顔の助け」がここでは、「わが顔の助け」なのです。(中略)ヘブライ語原典は「我なおわが顔の助けなるわが神を、ほめたたうべければなり」です。(中略)「御顔」から「わが顔」への変化は、詩人の信仰的な認識運動を表現したものであると言ってよいでしょう。すなわち、御顔がまずしっかりと私に向けられることで、私の救いもしっかりと立てられる。それにしても、「わが顔の助けなるわが神」とは、非常におもしろい表現です。
9 顔は意志を伴う
さらにつけ加えておきたいことがあります。顔はその人の意志を伴う、極めて意志的なものだということが、実は顔の一番大切な点なのです。神にはっきりとした救いの意志がある。そして行動してくださり、応答してくださる。だからわれわれは感謝を込めて「神の御顔」と言うことができる。その神に私が信頼する。私が私の顔を神に向けるので、神が「わが顔」の助けとなるのです。そのような観点からあと二つ聖書の箇所を取り上げます。一つは出エジプト記三三章14-15節です。(中略)「わたしが自ら」と訳されている言葉が、ヘブライ原典では「私の顔」と書かれているのです。「『私の顔が君たちと一緒に行く』と神が言われた」とは、これまたおもしろい表現です。(中略)神の顔がともに行くという意味は、単純に神がイスラエルの民と一緒に行くということではありません。神が同行するとは、神が神として行動したもう、ということです。イスラエルの民が悩み苦しんで神に呼ばわると、神がそれに応答してくださる。それは「神が御顔を向けたもう」ことにほかなりません。ですから、「神の御顔が同行する」という表現が意味深いのです。さきほどの、「御顔の助けありて」という詩編四二編の言葉を思い出します。「顔」という言葉がこのように使われていることが分かれば、神様はどのような顔をしているのかなどと考えることが的外れであることがよく納得できると思います。
10 「どうしてあなたの顔を落とすのか」
人間の顔についての興味深い用例として、もう一箇所、創世記四章3節以下を取り上げましょう。これは有名なカインとアベルの物語のはじめの部分です。(中略) 7節の「顔を上げる」は比喩的な表現で、神様と顔と顔を合わせるということです。(中略)6節の「どうして顔を伏せるのか」と訳されている部分は、原文どおりに訳したのでは通じません。どうしても私たちの聖書のように訳さざるを得ないのですが、原文は人称がちゃんとついています。これを直訳すると、「どうしてあなたの顔が落ちるのか」です。(中略)落ちてしまう顔とはカインの内側のことです。彼の深いところの人格です。ですから「顔が落ちる」というのは、カインの人格がその深みにおいて崩れる、成り立たないということです。彼が神に対する応答性の根基を失ってしまうのです。したがってこの「顔」は、「応答関係を支える人格の深み」だと説明することができるでしょう。>(p210〜216)

モーセはイスラエルの民が、ヤハウェの声は聞いても「何の形も見なかった」(申命記4:12、15)と言ったが、民には見えなかったということであって、ヤハウェにはいかなる意味においても「かたち」が無いという意味ではない。上記の引用文にあるとおり、「神は『かたち』を持っておられる」のだ。従来の聖書宗教は、十戒の第2戒の偶像作り禁止を過剰に意識するあまり、ヤハウェの「体」や「かたち」に関して語ることを避ける傾向があったと思う。しかし、それは過ぎたことであり、旧約聖書には「御神体」も比喩的であれ重要な事柄として語られている。
「御顔がまずしっかりと私に向けられることで、私の救いもしっかりと立てられる」という言葉と、「神様はどのような顔をしているのかなどと考えることが的外れ」という言葉から思うのは、まさに「的外れ」を意味する「ハマルティア」(罪)とは、「神の顔」の前から外れる生き方であり、人生の「的」は「神の顔」だということだ。人は「神の顔」に向かって生きることにおいてこそ心身が安らぎを得て壮健たり得る。すなわち救われるということ。詩篇16篇の言葉が閃く、
「私はヤハウェを常にわが前におく。〔かれが〕わが右に〔あり〕、私は揺るがされないからだ。それゆえわが心は喜び、わが肝は歓喜し、わが肉もまた安らかに住まう。なぜなら、あなたは忠実な者に穴を見させず、いのちの途を私に知らせて下さるから。溢れる喜びが あなたの顔に、麗しいことどもが あなたの右に、永遠に。」(岩波版詩篇16:8〜11) ※注 = 11節a「七十人訳『あなたの顔と共にある喜びで私を満たして下さい』。」

ここで引用。
<ウェストミンスター信仰告白第2章1で、神は「存在と完全さにおいて無限であり、最も純粋な霊であり、見ることができず、からだも部分も欲情もなく、普遍、偏在、永遠で、とらえつくすことができず、・・・」と記されています。この中の「見ることができず、からだも部分も(なく)」のところに付けられている引照聖句(それを言う根拠となる聖句)を調べてみますと、「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神」(一テモテ1:17)、「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった」(申命記4:15)と、ヨハネ4:24、そして「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(ルカ24:39)が挙げられています。これらから読み取れることは、神は「目に見えない」、けれども、亡霊のようではない、ということです。おっしゃるとおり、神さまは得体のしれない存在ではなく、人格的存在でいらっしゃるので、それを表現するために、聖書は、人間の動作のような表現を神さまにも使います。他方で、聖書が、神さまは「目に見えない」お方であるということを強調している理由は、人間が偶像を造って拝まないようにするためです(申命記4:16以下参照)。>(〜「キリストへの時間」の掲示板の「有又屋さんへ」投稿者:Meg投稿日:2014年10月04日 21時32分12秒)
http://www.christ-hour.com/bbs/

「人格神」については、並木氏は上掲書で次のように述べられている。
<・・・イスラエルの神を説明的に定義すれば、「民をして『あなたはわたしの神です』と告白させる神だ」と言うことができます。これを人格的な関係と言います。このような神を「人格神」と呼びましょう。神が人格神であるとは、神自身の本質が人格であるということではありません。そのように神の本質を人格という語で説明するのは、本当はおかしなことです。神は神であって人間ではないからです。にもかかわらず私たちは神を人格神として受けとめている。それはこの神が私たちに「あなたは私たちの神です」と告白させてくださる、そういう人格的な関係をつくり出してくださる神だからです。このような意味で、神は人格を持ちたまい、そして人称を持ちたもうのです。「人称を持つ神と人間」という今日の主題の意図はそこにあります。神は神ですから、神が人称を持つという考え方も人格と同じように、躓きを与えるかもしれません。「人称」はたしかに人の間で使われる言葉です。しかし、神について人称の代わりに「神称」とは言いませんし、言っても意味がありません。>(p208)

とにかく、聖書に示された「神」は、(ラテン文字では)「YHWH 」の子音四文字で表される固有名を持つお方であり、その「名」が「体」を現わしているのである。そしてその名の意味が「彼はあらしめる」とか「彼はならしめる」などとも云われ、その真偽は不明であるとしても、創造主にふさわしい名としてこれを採用してよいと思う。
<一般に何々の名とは何々そのものであり、人は名(すなわち名詞、言葉)を知るだけでその実体をも把握し得たと思う。こうして聖書でも、例えばエレサレム神殿はヤハウェがおのれの「名」を住まわせた場所である、とされた(申12:11等)ように、「神/ヤハウェの名」は、神/ヤハウェそのものを表し(5:12、124:8等)、しばしば「神/ヤハウェ」またはこれを指す代名詞と並行して現れ(7:18、20:2、44:6等)、例えば「ヤハウェの名を呼ぶ」(79:6、80:19、99:6、105:1、116:4,13,17)とか「ヤハウェの名を知る」(9:11、91:14)とは、神/ヤハウェを拝することである。いっぽう名即実体というこの心的作用は、神名の禁忌(出20:7等)を引き起こし、「ヤハウェ」の代わりに「(わが)主」ないし「あなた/かれの名」と呼ぶ慣習を生んだ(8:2、29:2等)。>(〜岩波版 松田伊作訳『詩篇』補注 用語解説「名」) ※松田氏は『聖書ヘブライ語』〔キリスト教図書出版社〕第5号の11頁で、ヤハウェの名がヤハウェ自身を表す場合があること、また「名即実体」ということを述べている。

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