聖書の御神体

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<<   作成日時 : 2015/03/13 20:09  

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聖書に示された「御神体」には目に見えるような「形」は無く(申命記4:15)「物体」ではありません。ところで、十戒の第二戒の「偶像崇拝禁止」を極端に理解することにより、いかなる意味においても「神」の対象性を否定する立場があります。もちろん当方は、「アデルフィアン派」などの「神人同形」説は聖書的に誤解とみて採りません。前述のとおり「神」は本来的に視覚の対象となる有形存在ということではありませんが言わば有体存在であり、啓示のための自己対象化として被造物、特に天使や人間の姿形をも取り得る存在であることが旧約聖書において示唆されていること(創世記18章前半、32章後半、他参照)は認め得ると思います。

三浦綾子さんは創世記1:26〜28の解説の中で、「神は自分のかたちに人を創造された」ということの意味として、「神は、体をお持ちにならない方(キリストは『神は霊である』と言われた)であるから、神の体に似ているのではなく、その霊性に似ているというのである。だから人間の肉体から逆に考えて、神を人間のような顔形であると思うのは誤りである。わたしたち人間は、神に似た霊性を与えられたのである。つまり神は人間の霊性の原型なのである。」(〜『旧約聖書入門』の「一 天地創造」)と述べておられます。「神を人間のような顔形であると思うのは誤り」という見解には賛成です。ただし、神はいかなる意味においても「体をお持ちにならない」とは言えません。むしろ「体をお持ちになることができる」ということが「顔」などの人格的メタファーによって示されています。この点が軽視されると「信仰対象の喪失」という深刻な問題が生じることになります。ちなみに佐藤優さんが、「たとえば三浦綾子さんがキリスト教入門とか聖書入門など書いているが、あの種のものを読むと聖書理解は神学の立場からは場違いでしょうね」といったことを述べています。https://www.youtube.com/watch?v=BctZZXT-kIw
いずれにしても「神は体を持たない」と言うだけでは、信者においても未信者においても聖書が示す「神」は「得体の知れない」存在であるという誤解を招きかねません。

その点で、たとえば「イエス之御霊教会教団」の教理的特徴といわれる、「唯一のイエス・キリストの中にこそ父、子、聖霊の三つの位格が存在している」という「ワンネス信仰」(〜wikipedia「イエス之御霊教会」)は、論理的には、「唯一の神の中に父、子、聖霊の三つの位格が存在する」という説(〜同上)にさらに輪をかけておかしいが、「一体の部分のそれが何であるかを明確にしない限り礼拝の対象が定まらず正しい神観が得られない」(〜同上)という部分に限って見れば一定の理解なり共感はできます。但し、その結論が「イエス=真の神」という「ワンネス信仰」であるということが聖書解釈として決定的におかしいということ。

「神は霊」(ヨハネ4:24)であるとは(ここでの「神」は文脈的に「父」)、「神ははたらき」であるという意味とも受けとれます。ただし、「はたらき」にはその「主体」と「内容」と「伝達」の三面が区別されるそうです(〜八木誠一氏との私信)。「神」には、いかなる意味においても「体」が無いということではなく、その得体は「はたらき」の三面における「主体」面であると言えます。また、「全一者」というブログでは、<「神は霊」(ヨハネの福音書4:24)というのは、「神」の内在面について言われていることであり、超越面は霊的「天」にある本実体です。被造世界の「天と地」に満ちているのは「神」の本実体ではなく「(神の)霊」であり「(神の)活動する力、働き」であって、「全体」(=「神」)は「部分」(=「(神の)霊」)の総和を超えるのです。したがって「神」が全存在をもって被造世界のあらゆる所におられるわけではありません。詩篇139:8などを表面的に読むと「神」自体の被造界遍在という誤解を生じます。>と言われています(〜ブログ紹介)。

また、同じく「全一者」の「スピリチュアリズムの神観」では、<「神は法則です」の「法則」が「神そのものではなく、神の創造物・属性」であるなら、「神は愛です」の「愛」や、「神は霊です」の「霊」もまた「神の創造物・属性」と言えるだろうか?「愛」は「属性」だとしても、「霊」は「属性」の一つではなく分身であり「活動する力」(〜JW)であり、改革派神学では「(神の)力」は「神」の流通属性の一つである。>と記されています。いずれにしても、「神は愛なり」にせよ「神は霊なり」にせよ、単純に「神」の定義と解し、「神」は関係であって実体にあらずとか、はたらきであって人格にあらずとかの理屈をこねたり、さらには逆もまた真なりと言って「愛は神なり」とか「霊は神なり」とか言うのは愚か者であり、そうではなく、これらは「神」の特徴についての強調表現と解する必要がある。むしろ「神は愛」だからこそ人格的な存在であることを示し、「神は霊」だからこそ非物質的で無制約な存在であり、その意味では、「神は法則」だといってもそれは「神」御自身の法則であり摂理のことであるから、むしろ、「神」は自然法則とか物理法則をも支配下におく超越的存在であることを示しているのだ。

ところで、聖書には「神の後ろ姿(背中)」という表象があります。
「主なる神は、モーセが御自身の『顔』を見て滅びてしまうことを望まなかった。それゆえ、『手』でモーセを覆い、彼が御自身の『後ろ姿』を見ることができるまで、彼のことを覆い続けた。そして主なる神が『手』を取り除くと、モーセの目の前には神が『背中』を向けて立っていたのである。この『神の後ろ姿』は何を意味するのだろうか。」
http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2015/07/14/064654
私は、この擬人的表現も、「神」が人格的身体性を有しておられることを意味していると思います。その点では、引用したサイトの執筆者とは解釈を異にします。もっともそうなると「神」は御自身をスケール的にはモーセの視覚的対象となるくらいになさったともイメージできます。もちろん「霊」としての「体」なので、肉体的意味とは異なりますが、モーセは「後ろ姿」ではあれ「御神体」を見ることが許されたわけで、単に視覚的対象として顕現なさったというわけではないでしょうが、自己限定されてのことだと思うので、まったく対象性とか身体性を超越した抽象的意味での顕現とか啓示として受けとめる必要はないと思います。ある意味、「神」は人間、それも一部のエリートだけではなく一般庶民・民衆にも御自身を具体的に示してくださるお方です。

ちなみに、ヨハネス・G・ヴォス著、玉木鎮編訳『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』(聖恵授産所出版部)では、「神は霊である」という意味は「神は物質的な体をもっておられない存在であることを意味する」と言われており(p40)、ここでは「モルモン教」の立場が斥けられています。また、「神は存在する唯一の霊ではない。神は霊と呼ばれる分類に入る一つの存在である。霊という分類の中には天使や悪霊も含まれる。だから神は霊であるというとき、東京は都市であるというのと同じ言い方で言っているのである。(中略)『神は霊である』といって、『神は唯一の霊』といわないのは、神が人格者であられるからだ。『神は唯一の霊』という言い方は、神の人格性に対する不信仰を含んでくる危険性がある。」と言われており(p41)、ここでは「クリスチャン・サイエンス」の立場が斥けられています。

いずれにせよ、神が「霊」であるということ、すなわち、目に見えず形もなく「遍在(ユビキタス)」しているということは、まったく無体無形の得体の知れぬ空気か何かのようなものが漂っている・・・といった意味にはとれません。言わば「無形の形」、「無体の体」としての実在性、実体性があると言えます。

遠藤周作氏は八木神学の影響を受けて、「神は存在ではなく働き」だとか、「対象ではなく、その人の人生を通して働くもの」などと述べていますが(〜『私にとって神とは』〔光文社〕)、この「はたらき」の三面が抜けている点が問題です。「その人」自身が「はたらき」の主体ではなく、あくまでも(父なる)神が主体であって、その神が「その人」に内在的に働くということでしょう。遠藤氏の小説『沈黙』では、ロゴリゴ神父を通して「イエス=神」が働いたのですが(私見では、真の主体である「神」は「イエス」ではなく「イエスの父」です。内在する「神」とは「父」ではなく、その「霊」なのですが、それは実体論的三一神論の話になります)、その際、ロドリゴが「主体」なのではなく、彼は言わば客体的主体であって、真の主体は「神」なのです。

「神」は人間の思惟における「対象―非対象」、「有体―無体」、「人格―非人格」といった分別を超えた無制約存在ですが、それだけなら「活ける神」とは言えません。「神」は人間に対する自己対象化として、認識の「的」を与えるべく形体を取り給うたのです。その究極が新約聖書の救済物語(His Story)における「受肉」であり、肉体ではなくキリストの「復活」体であって、そこに「神の愛」が現われました。そもそも旧約聖書では「主(=YHWH)」なる神が「霊」だとは言われていません(『旧約新約聖書大事典』の「霊」参照)。新約聖書においても、「父なる神=霊」という命題はヨハネによる福音書に特有であることが考慮されるなら、これを聖書的神観と絶対化して拘泥する必要はないでしょう。聖書的には、「神は霊」の「霊」と「(神の)霊」(マタイ3:16、4:1他)の「霊」とは区別されて然りです。前者の「霊」が「神」の「無制約性」を表わすのに対し、後者の「霊」は「聖霊」を意味し、「神の活動する力」(〜JW)などといわれます。

さらにルカ24:39の、「霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(新改訳)における「霊」の意味も前の二つの意味と区別されなければなりません。原語は同じ「プニューマ」ですが、これは新共同訳で「亡霊」、対訳の川端由喜男訳で「(亡)霊」と訳されているとおり、まさに「肉」の対義語としての意味です。(※ちなみに、Uコリ3:17の「主は霊」の「主」は御父ではなく御子キリストであり、直後に「主の霊」とあるとおり「≠」の関係ですが、「霊」と「主」は密接な関係なので「≒」とみなし、これを簡略化して「=」で表したものと解し得ます。「主の霊」という場合は「>」であって「=」ではありません。)

ヨハネ4:24の文脈では「霊」が「神」の本性として規定されているのではなく(両者の関係は上記と同様であり、「霊」は「神の霊」なので、滝沢克己氏の表現を用いるなら「不可分・不可同・不可逆」)、あくまでも礼拝対象である「(父なる)神」との関係に重きが置かれています。つまり人々は、「真理=キリスト」(14:6)と「聖霊」の働きにおいてこそ「(父なる)神」を真に礼拝することができるという告知として受け取れます。(※ちなみに、原文の前置詞「エン」を口語訳や新共同訳のように「〜をもって」と具格向きに訳すと、「霊」と「真理」が人に属す心的状態とか機能であるかのような印象を【「真理」ではなく、口語訳や新改訳のように「まこと」などと訳すと尚更】与えますが、小林稔訳のように「〜のうちにあって」と位格向きに訳すと「父、子、霊」の三一関係が現われてきます。新改訳の「〜によって」は「手段」ではなく「根拠」を示すと取れば後者。)

<「神と人との相互内在」(神は人のなかにあり、人は神のなかにある)(中略)「(人が)神のなかにある」ことを「(人が)神というはたらきの場に置かれていること」と言い直すと、神は「場」という比喩で語られることになる。他方、「神が(人の)なかにある」ときは、人は神のはたらきが現実化する「場所」であるといえる。「人が神のなかで」と「神が人のなかで」との両方で、人間は神によって生かされること(受動)、他方、人間が自由な主体として生きること(能動)が語られる。(中略)神(キリスト、聖霊)が場所論では「霊」として把握されていることに気づかれるであろう。実際そうなので、「霊」は目に見えず形もなく遍在しているから、事物・人は霊の作用圏内にある。他方、霊は人(ないし事物)に宿って出来事を生ぜしめる。「霊」は人格や存在というよりは、「はたらき」である。>(八木誠一著『イエスの宗教』p2〜3)

<神について語るためには「人格」と「場」という両方の比喩が必要なのである(中略)。まさしく一見対立する両者が必要であるということが、両者が比喩であって「写像」ではないことを示している。(中略) 愛は神ではなく、神のはたらきによって成り立つ。愛は、人のなかではたらく神が成り立たせる人のはたらき(ピリ二13)の代表である。こうして神は、人のなかで(世界のなかで)はたらく神として理解される。(中略) 神は世界と人がそのなかに置かれる「場」、世界と人は神のはたらきを宿して現実化する「場所」である。世界のなかではたらく神は「ロゴス」(ヨハ一1−3) 、人のなかではたらく神は「キリスト」と呼ばれ、それぞれが神との作用的一をなす。「神の作用の場」は、すなわち世界に遍満する「聖霊」の場である。聖霊とは〈はたらく神〉を、神のはたらきとして、世界と人間に宿らせる作用、つまり神の自己伝達作用だからである。またその結果として、人間に宿った神のはたらきは「キリスト」といわれる。すると神、神のはたらき(神の自己伝達作用つまり聖霊)、キリスト(すなわち人のなかではたらく神) は三にして一だということになる。神は、はたらきの根源(究極の主体)、聖霊は、はたらきの伝達作用、キリストは、その結果人のなかに宿る神だからである。三位は、はたらきとして一で、はたらき方として三である。さらに「愛」は、神のはたらきと人のはたらきとの〈作用的一〉として、「まことに神・まことに人」(この場合、神、人は動名詞である。「まことに」という副詞がそれを示す) である。これは両性論的キリスト論の根だ。>(八木誠一著『〈はたらく神〉の神学』p44〜46)

ここで「愛」について述べられていますが、前掲の『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』では以下のとおりです。「聖書によると愛は神の属性の中の一つにすぎないのである。神は愛でありたもう。しかし、神は愛以外の何物でもないということでは決してない。聖書は神は又、絶対的正義の神でもあることを教えている。罪人たちの永遠の処罰において表現されるのは、絶対の正義という神の属性なのである。」(p118)

曽野綾子さんは、「神はどこにおられるか、というと、こうした小さな者の一人一人の中におられる、と聖書は言うのだ。だから私たちは、私たちの目の前にいる人を、地位や身なりで見下してはならない。ぱっとしない、いかさない人だからと言って、軽蔑してはならない。神はそういう人の中におられるのである。」と述べておられます(『生活のただ中の神』〔海竜社〕の「2 私たちは例外なく小さな者」p26)。
ここで挙げられている聖書箇所はマタイ25:40「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」です。普通はここで「小さな者の一人一人の中におられる」のは「キリスト」であるといわれますが、キリスト教ではそのキリストは「神」でもあるので、曽野さんのような解釈も成り立つのでしょう。そしてこのような見方は隣人愛の実践につながる点では有意義だとも言えるでしょう。しかし、できれば、このような神秘主義的な解釈とは別の解釈によって隣人愛の実践につなげる方が好ましいと思います。聖書が示す「神」は特に弱者の中におられるのではなく、生きる力を求める者たちに「天」から活力としての聖霊をお送り下さるのだからです。旧約聖書のゼファニヤ3:17や新約聖書のエフェソ4:6などのように、「神」が個人に内在することを示す一部の証言をもって「神の内在」を強調することには反対です(ホセア11:9、ヨエル2:27、ミカ3:11などの集団への「神の内在」は、ここでは問題外)。聖書は全体的に見て、「神」の遍在や内在よりも在天と超越を示しているからです。

私たちは「霊」というと、空気や霧のように、ただ一様に広がる漠然としたものと考えやすい。しかし霊なる神は、肉眼には見えず無形であっても、霊の眼には「姿」あるかたなのである(民数一二・八)。神は、無形の非物質だが、顔、手足、目や耳、その他に相当する各種の働きをする要因を持っておられる。それは物質的肢体や物質的感覚器官とは異なるが、有機的な働きをするそれぞれの霊的な各要因を持っておられるのである。したがって、霊には霊的な姿がある。イスラエルの王であり預言者であったダビデは、神に向かって、「私は・・・・御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」(詩篇一七・一五)と祈った。また、かつてモーセが、神に「どうか、あなたの栄光を見せてください」と言ったとき、神は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない」(出エ三三・一八〜二三)。神が、ご自身の「うしろ」「顔」等と言われる以上、神には霊的な御姿があるのである。神の御姿は、私たちの想像をはるかに超えている。それを私たちの知性で把握することは難しい。神は無限であって万物を超越し、肉の眼には見えず無形である。しかし、霊の眼に対しては、姿あるかたである。>(〜「Remnant」)http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/073wakaru.htm

「神の体」は本来的には肉体のような物体ではないということは聖書の真実ですが、「神の体」はキリスト・イエスの「復活の体」と無関係には啓示されていないということもまた聖書の真実です。そこに「キリストの聖体」の奥義があります。このように、「神の体」を聖書から語り示すことは宣教の実践的課題だと言えます。
前述の「神のかたち」(創世記1:26〜27)ということは、「神の似姿(imago Dei)」というテーマで昔から色々な解釈がなされていますが、私はアデルフィアン派のような「神人同形説」は採らず、「神」と人間が我と汝という人格的関係にあり、創造主である「(父なる)神」は対向者であり給うことが示されていると思います。(※ちなみに、御子は先在で「ことば(ロゴス)」として御父の創造に関与したので、その意味では創造者ですが、「創造主」は御父のみです。)

「わたしの面前で君は他の神々を持ってはならない。」(出エジプト記20:3 関根正雄訳)
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8 新改訳)

当ブログでは、聖書が示す御神体について色んなサイトや本その他の資料を参考に探求し発信しています。その主たる動機は前述の宣教課題としてであり、特に、「神」の実体性が曖昧だと精神が不安定になり、信仰生活に支障をきたす同志を活気付けるためです。

「名は体をあらわす」ということわざもあるとおり、聖書において「神」は、(ラテン文字では)「YHWH」(神聖四文字=テトラグラマトン)の名によって表される「体」をもっておられるのです。YHWHの語源が「HYH(ハーヤー)」の使役態3単男未完「YaHYeH」という説を前提とすれば、その名は「存在せしめる者」という意味になり、その存在自体が確固たる「体」なのだと言えます。

また、「子は親を映す鏡」とか「子を見れば親がわかる」などというように、新約物語の中で「イエス・キリスト」は、けっして「(父なる)神」と「同一実体」として描かれているわけではありませんが、「神」の人格的対象性を具現した存在として描かれています。そこに、物語る主体である「神」の意図がみてとれます。「イエス・キリスト」は「神の啓示(者)」というより「神関係の啓示(者)」であり、「神関係」において「神」を啓示しているのです。すなわち「親子関係」において「親」を映し出しています。「神」はそのような仕方でご自身を我々に物語っておられます。
旧約物語においても「神の使い」等が「神」の人格的対象性を現しているかのようですが、それは「顕現」もしくは「化身」であって、新約物語における神の子ロゴスの「受肉」とは異質です。

「啓示」には「一般・自然啓示」もあり、「イエス・キリスト」だけが「唯一・独一」の「神の啓示(者)」というわけではありませんが、その「具体性」において「究極」の「神の啓示(者)」と言えます。「神の体」を歴史的に具現する人物の名は、「YHWHは救い」という意味の「イェホーシュア(>イエースース>イエス)」です。人名としては珍しくはありませんが、キリスト論的称号が付くと相乗的に特別の意味を持ちます。その「イエス・キリスト」(呼称としては「キリスト・イエス」の方が適切)が、「インマヌエル」とも呼ばれるというマタイによるイザヤ預言(7:14)の解釈の意味は、誰でもアハズ王のように「神」への信頼が揺らぐ時には「神」の対象性を喪失し実在を感じられなくなっているのだから、その時は神の体(たい)を現す名の「イェホシュア(=イエス)」を見よ!という意味に解せます。その名の意味は「ヤハウェは救い」ということだからです。

「イエス・キリストの名」が「神名」なのではなく、「神の体を現す名」はあくまでも「ヤハウェ」であり、さらにその名を示すのが「イェホシュア(=イエス)」なのです。つまり「イエス・キリストの名」は「神名を現す名」ということになります。従ってその「名」が現す「体」についても、「キリストの体」が「神の体」なのではなく、「神の体を示す体」、「御神体を示す聖体」です。「聖体」の所以は我らを「聖なるもの」とし得る唯一の献げ物であることで、罪人を贖い「聖(きよ)め」たキリストの体はそのものが「聖なる体」なのです。そしてこれは「(父なる)神」と我らとの関係において、イエスが至聖所と聖所との間の垂れ幕と言われているとおり、「媒体としての体」です。

「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」(ヘブル人への手紙10:10 新改訳)
「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル人への手紙10:20 新改訳)
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 」(Tテモテ2:5 新改訳)

上に引用した聖句では「イエス」の「肉体」と言われていますが、同じ「肉体」でも、これは新約物語の中での「イエスの肉体」であって「史的イエスの肉体」ではありません。ただし、両者は非連続の連続であり無関係ではありません。だからこそ「歴史」のリアリティーを持ち得るのです。そしてこの点が神名である「ヤハウェ」の補完的意義を示します。

我々にとって、「神の体(たい)を現す名」である「YHWH」だけではリアリティーとしては不足なのです。たしかにその「名」も歴史性を有していますが、その歴史とはイスラエルという民の歴史であり、我々日本人にも通じる普遍性を欠くからです。神の名がこの普遍的歴史・現実性を得るには、世界万民の罪の贖いのために死んだ「イエス・キリストの名」を通して(介して)示される必要があるのです。

「神の体」は人が救いを求める時の「的」です。キリスト・イエス自身が真の「的」なのではなく、「的」である「(父なる)神」を写し出す「媒体」であり、人がその目「的」地に向かって生きる「道」です。その「道」を「的ハズレ」にならないように歩いてゆくことが信仰生活ですが、人はしばしばハズレるので、聖霊の助けにより祈りつつ悔い改めながら軌道修正してゆくことになります。http://search.kirisuto.info/index/dir_1_01/03/


(LINK)

「全一者」http://inri2009.at.webry.info/

「遠くの神」http://decree.at.webry.info/201705/article_1.html

「YHWH」https://doukousya.jimdo.com/

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