聖書の御神体

アクセスカウンタ

zoom RSS 「キリストの体」を抜きして「神の体」はあるのか?

<<   作成日時 : 2014/11/18 03:36   >>

トラックバック 0 / コメント 0

●「聖書のイエスの復活体」と「歴史のイエスの肉体」

そもそも、「イエス・キリストの体」を抜きした「神の体」などというものを聖書から読み取ることができるのでしょうか?旧約聖書だけでは不十分ではないのでしょうか?
「三位一体」の教義の元は、ヨハネ福音書1章のロゴス(=御子)の「受肉」であり、「神が人となった」ということですが、その奥義は何かと言えば、結局、神の得体が定かになることであり、啓示の意義とはまずもってこれであろうと思われます。しかしだからと言って、たとえば、「古代教父エイレナイオスは『園を歩き回られる神である主の声』は、三位一体の第二位格つまり受肉以前のロゴスを指していると理解しています。『見えない神のかたち』である御子が、啓示において私たち有限な人間にとっては見えない絶対者である父なる神を、私たちにも見えるようにしてくださる役割を担ってくださるお方であることからすれば、エデンの園において最初の夫婦と親しく交わられたお方は、三位一体の第二位格である御子だと推論することには一理あります。というわけで、私たちは聖書の第一巻である創世記の第三章、エデンの園の記述において、すでに、後に人となって私たちの間に住まわれ、あの緑したたるガリラヤの地を歩き回られる御子の影をここに見ることができるのです。」(〜日本同盟基督教団 苫小牧福音教会 水草修治牧師の説教「あなたはどこにいるのか」 〔創世記3章8-15節/2017年6月15日 北海道聖書学院チャペルhttp://koumichristchurch.hatenablog.com/)などと言うのは、私見では、現代のキリスト教宣教においては神話的すぎて首を傾げざるを得ません。
結論を先に書いておきます。当然のことながら、歴史的現実に「真に人」として実在したであろうナザレ人イエスの身体を「キリストの体」とか、ましてや「神の体」などと言うのではありません!また、同時に「真に神」であり得る「真に人」なる者とは「罪を別にすれば」(ヘブル書4:15)の一句に示されるとおり単に我々一般の人間と同じ煩悩具足の凡夫ではあり得ない。堕罪前の本来的人間モデルとでも言うべきか、あるいは超人的とか最近の俗物が使う表現で「神(がか)ってる」とか言うにしても、やはり「真に神」である「真に人」などという者は歴史上の人物とは言えない。そんなイエスなる者が2000年余り前のパレスティナに実際に存在したなどと言うことは正気の沙汰ではない。いかに宗教にはクレージーになる面があるにせよ、これはあまりにひどすぎる。歴史現実に対しては軽視を通り越して冒瀆とも言える。この点、読者はよくよく理解せよ(そもそも私が「ロゴスの受肉」とか「神が人になった」とかいうことを信じ得るためには、歴史的事実とは別の宗教的真実を認め、その二重性の現実を信仰生活の場として理解する必要があり、その宗教的真実の表現が過去においては神話という形をとったこと、その一定の意義は認めつつもこれを批判し「非神話化」する必要を感じる)!人間の身体を「神の体」とみなすことは「相対の絶対化」の典型であり、偶像崇拝の罪につながる。日本人(の特に田舎に生まれ育った民衆)のDNAに刻み込まれている「生き神信仰」にもつながる危険あり!いわゆる「ワンネス信仰」における、あまりに無節操なイエス崇拝・・・聖書が示す「神」のすべてをイエスに還元しようとする志向性にその反映が感じられる。他国・他民族にみられるイエスに対する「ワンネス信仰」、「ジーザス・オンリー」の宗教心理的背景などは考察の範囲ではない。とにかく、私が「キリストの体」と言うのは、歴史上に実在したナザレ人イエスという人物の身体とは異なる、聖書の福音書で言われる、極度に抽象化され捨象された非歴史的人間モデルの「キリスト・イエス」の体にほかならない。言い換えれば物語の中の人物、ファンタジーとしての神性を持つ人間イエスの身体である。
いつのまにか敬体が崩れたが、私の文章は強調し始めるとそうなるクセがある。とにかく、欲望を持つ生身の人間の身体を、私が聖書の教えに反してこれを「神の体」などと言うわけがない。そのことを読者はよくよく頭に置いて下さり、以下をお読みくだされ。

ウェストミンスター信仰告白2の1の、「ただひとりの(1)、生ける、まことの神(2)がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり(3)、最も純粋な霊であり(4)、見ることができず(5)、からだも部分(6)も欲情もなく(7)、不変(8)、遍在(9)、永遠(10)で、とらえつくすことができず(11)、全能であって(12)、」にみられる問題は、神には「からだも部分」もないという根拠聖句として、申命記4:12、15(〜16)とヨハネ4:24はよいとして、ルカ24:39が引かれていることの意味である。これは主イエスの復活の体について言われたものであり、むしろ、ヨハネ20:27などと共に三位一体の神に「からだ」があると解する典拠の一つとなる。だから、神に「からだ」がないと解する根拠となる聖句ではなく、逆に、神に「からだ」があると解する根拠となる聖句である。さらにルカ24:39は、新共同訳で「亡霊」と訳されるギリシャ語「プニューマ」は「霊」とも訳せる。これはヨハネ4:24で「神は霊なり」と言われているところの「霊」と同じ言葉なので、矛盾するとみることも可能。

要するにルカ24:39やヨハネ20:27の主旨は、肉体を軽視する異教的思想へのアンチテーゼであり、神に(物質的)身体があることを主張するものではないにせよ、「霊」という表現では言い尽くせない、むしろ誤解を招くおそれがあること、すなわち三位一体の神はあやふやな存在ではなく確かに人格的に実在するお方であるということ。これがイエスの「受肉」の秘義であり、また「復活の体」の意味であること、イエスが「真に神」であると同時に「真に人」でもあることの意味であろう。「神、人に成り給へり」という受肉の真理がここに隠されていると思われる。聖書は「偶像崇拝」への警戒から、神が形なく見えない存在であることを強調しているのだろうが(申命記4:12他)、「神のかたち」がキリストであるとも言われており(コロサイ1:15)、御子が父と同一本質の神であるという教理の主旨がこの点にあると思われる。
しかし、この点が重要なのだが、「歴史上に人として存在したイエスの身体を抜きにしては神の実体性はわれわれに見えてこない。いくら神は実体であると哲学的言辞を弄しても、その神が人間の歴史現実から離れた存在では『神の遍在』も『神の内在』も空理空論にすぎない・・・」などということではない!このような主張をするようではダメである!伝統的キリスト教では、聖書に証されたイエス・キリストと、歴史家が史料(資料)によって再構成した史的イエス像と、実際に歴史上に実在したはずのナザレのイエス、この三者を混同して信徒たちに説教してきたのだが、現代は「史的イエス」と「宣教のキリスト」とに分裂している。両者をつなげる試みが新約聖書学でなされているとは言え、それは教会現場での信徒教育にまで浸透しているとは言いがたい実情があろう。だから現場に立って考えれば、話をわかりやすくする必要がある。それは「聖書の御神体」を示す「キリストの体」とは、あくまでも聖書の物語の中に存在するのであって、歴史上には存在していないということである。

「否、否!歴史と無関係なことに確かさはなく、人として生きた『体(からだ)』以外に人格的存在としての『体(からだ)』はない・・・」などと言ってみたって、それなら現実の歴史の上で「復活」だの「昇天」だのといった出来事があったと心の底から認め得るのか?と言えば、そんなことは現代人の多くにとっては無理な話なのである。少なくとも八木誠一氏から学んだ者は、このような無理を押し通すような愚に陥るわけにはいかない。もし、この無理を突破せしめる力があるとすれば、それは聖霊の他力的はたらきであり、賜物としての信仰である。とは言え、それは教会のドグマに隷従する形ではたらくわけではないし、そのようなことなら、これを他力とか信仰とは呼べない。それはマインド・コントロールと大差ないことだからだ。聖霊の他力的はたらきによって(教会のドグマではなく)聖書の使信を受け入れる、その無理のない形とは、聖書の二重性すなわち「歴史」と「物語」との区別を前提とするものであって然り(ただし両者はともに「神(の意志)」の啓示の構成要素であるから、その関係に優劣を置かない)。かくして、「御神体」を示す「キリストの体」は、前者には存在しないが後者には存在するのである。
「まことに、こう言われる、いと高く崇められ、悠久に住まい、その名を聖なる者という方が、『高く聖なる所にわたしは住み、打ち砕かれ、魂のへりくだった人と共に〔ある〕。へりくだった人の魂を生かし、打ち砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ書57:15 岩波版〔関根清三〕訳)・・・これは注釈では、「15節前半は神の偉大さと超越、15節後半は神の低さと内在を述べ、両者相俟って聖書的な神観の一つの到達点を示している。」云々と書かれているが(169頁)、その「両者相俟って」とは「高く聖なる所に」住まわれる超越者の神が同時に「低く俗なる所に」臨在されるといった逆説的思想として受けとめることはできない。詩篇その他でも言われているとおり、神がおられる所は「天」すなわち「高く聖なる所」なのであって、その神が同時に遍在なさり、地上の、それも人間の中にも内在なさるなどといった観方を採る必然性は無い。聖書釈義としては、JWのように「内在」するのは神ご自身ではなく、その霊であり、神の「遍在」は聖書が教えるところではないと解するのが妥当だと思う。「打ち砕かれ、魂のへりくだった人と共に〔ある〕。」という、その「共に〔ある〕」の意味は人間の身体に内在なさるという意味ではなく、そのような人を「神」は特に顧みていて下さる、愛していて下さるということであり、せいぜい聖霊の内住ということで問題ない。ウェストミンスター信仰基準でも認められている「神の遍在」の教理は、「神の体」について気体のようなとらえどころのないものというイメージを醸成してしまう。それが信仰心を不安定にするおそれがある。どうしても「遍在」を認めねばならないというなら、次のような理解に共感する。
<神は、遍在性を持たれながら、近くにおられたり、遠くにおられたりするのです。あるいは、「高い」ところにおられるとも、聖書は言っています。神は、全ての場所におられながら、はるか「高く」におられる方です。これを神の超越性という言葉で表現します。聖書の時代に「高く」というのは、空間的なイメージをしても充分とらえられるものでした。(もちろん、当時においても空間的に「高い」わけではありませんでしたが)人間は、決して宙に浮くことができなかったからです。しかし、今は、宇宙へ行くことの出来る時代です。空間的に「高い」ということと、神がとても「高い」方であられることが結びつきにくくなっています。しかし、このことは非常に大事な理解になります。どの場所においても、神はおられますが、どの場所においても神が「近く」におられると言うことは、必ずしもできません。むしろ、どの場所においても、神は非常に「高い」ところにおられる方です。>http://www.kanazawabbc.org/attribute_of_god/1060/
しかし私は、基本的に「遍在」は聖書的教理とは認めておらず、この点ではJWの立場と同様。
「遍在」については、<遍在といった特質が強調されてくると、非人格化する方向が出てくるように思われる。なぜならば、遍在という属性が強調されると、それは天に在します主としての神という観念と明らかに矛盾するということになるからである。そうなると、神はここにあり、かしこにありというものではなく、形のない非人格的存在であるとみなされる傾向が生じてくると思われる。>(『新しい神観の研究』〔星雲社〕77頁)といわれています。
また、キリスト論の問題に関しては次のような指摘が有力だと思います。
「もしナザレのイエスが神であるなら、すなわちナザレのイエスを主語として、イエスが『まことの神 ・まことの人』であるというなら、そしてこの意味でイエス・キリストは永遠に神人二性を具えていると言うなら――伝統的・正統的教義学はこのように教えて来た――、時間と空間の創造前にひとりの人間がいて、この人間が創造に関与したことになってしまう(ある高名な神学者はこれを肯定した)。そしてまた『復活』の後のイエス・キリストは相変わらずひとりの人間として存在することになってしまう(ある高名な神学者はこれを肯定した)。しかしこれはもはや逆説ではなく、到底ありえない背理だと言わなくてはならない。」(〜八木誠一著『キリスト教は信じうるか』〔講談社現代新書〕p198〜199)
・・・このように、イエス・キリストという人物が「まことの人」でありながら同時に「まことの神」であるとし、それが歴史的社会的現実に実在したことを主張することは、正気ではあり得ないことである。それでも使徒パウロの如くクレージーになってそのような宣教をしてゆくという人には何も言うことはない。ただ、そのような宣教の対象となる人々が気の毒である。その宣教者がマインド・コントロール的心理操作の技能を持っている場合はなおさらである。「神」はこの歴史的社会的現実を超えて存在することを信じることはできるが、この現実に内在することを信じることはできない。現実の中での事柄は「信」ではなく「知」の対象となるからだ。「神」は現実を超えてなおかつ現実を支配・統治しておられるが(→「神の支配」)、現実の内部に客観的な形で介入して来られることは無い。だから神義論など無意味である。「神」が「人」となって現実の中に入って活動されるというようなことは「信」の対象にも「知」の対象にもなり得ない。それは「神」が現実を超えておられても現実の中に聖霊を通して主観的にはたらきかけておられることを信じるための媒体としての物語である。
J.H.チャールズワース著/中野実訳『これだけは知っておきたい 史的イエス』(教文館)はオーソドックスな立場で書かれているので、そのタイトルおよびタテマエの客観性とは合わない結論になっており、滑稽でさえある。その象徴的とも言える最後の箇所だけを抜き出すと次のとおり。
「問26 もしイエスの骨が発見されたとしても、復活信仰は可能か? 
歴史家たちは、そのような問いに答えることはできない。彼らは、イエスの弟子たちの主張をただ指し示すことだけができる。イエスの弟子のある者たちは、復活したイエスが体を持っていたが、扉と壁を通り抜けることができたと主張した(ヨハ二〇章参照)。
問27 イエスは死者の中から復活したのか?  
この問いもまた、歴史家の方法論や焦点を越えている。しかしながら、歴史家は、イエスの十字架後まもなく、イエスの復活を経験した、とあるユダヤ人たちが主張した事実について述べることはできる。新約聖書神学の学者たちはさらに、新約聖書がイエスの復活を一貫して証言している事実を付け加えるであろう。」(p338〜339)
・・・これでは、司祭や牧師たちが信徒に説教する「復活のイエス・キリスト」は歴史の中に実在したかどうかはわかりません、と言っているに等しい。そもそも「復活」という出来事に関して「歴史家」に問うこと自体がおかしいのだ。言わば、カテゴリー・エラーである。このような伝統的キリスト教のあり方は、聖書が示す「神」の存在のリアリティーを人々に伝えることが困難だと思う。科学の発達に伴い、神学のあり方も変わるべきだろう。それは八木誠一氏が提示するモデルもあり得るが、私はやはり人格主義的伝統の一線は継承されて然りだと思う。

旧約の時代は、人々がいかにして神の存在を感じ取っていたかと言えば、十戒の言葉であり、それを入れた契約の箱であり、いまひとつ具体性を欠き、神の得体が知れなかったので、より深く神の臨在を感じたいという思いから偶像への誘惑に陥ってしまったのではないかと推察される。これに比して新約の時代には、イエスという歴史的実在者を通して(=介して)神を知ることが出来るようになり、十全かつ究極的に神の得体が知れることとなった。この件に関しては、まさにヨハネ14章のピリポのように「満足」できるようになったのである。
繰り返すが、歴史上に人として存在したイエスの身体を抜きにしては神の実体性・対象性はわれわれに見えてこない。人として生きた「体(からだ)」以外に人格的存在としての「体(からだ)」はないのだ。福音書、特にヨハネによる福音書に登場する「独り子なる神」としてのキリスト・イエスは、あくまでもその物語の中で存在しているのであって、現実の歴史には存在していない。現実の歴史以外のどこかに別の歴史(=救済史とか)があるわけではなく、福音書の物語はそれ自体、神話的表象を用いているが単なる虚構ではなく、神が我々に対してご自身の存在を、そしてご自身が与え給う我々との関係を、啓示するための「神の物語」なのだ。そう、聖書全体が神から霊感を受けた人々を通して成り立っている「神の自己証言」なのである。それは「神の体=神の対象性」を現わす「キリストの体」を永遠の命を得るための聖餐として信仰共同体の中心に置いているという意味では、「聖書は66巻のキリスト証言である」とも言い得る。その細かい内容は歴史的事実と区別されながらも同等の意義とリアリティーを持つのは、「独り子なる神」であるキリストが、全く架空の存在というわけでもなく、科学的にも検証可能な客観的事実として歴史上に実在したイエスという人物と、非連続の連続というべき関係性を持つからである。すなわち、史的イエスが福音書で物語られている「神の子キリスト」の素材になっているからだ。従って、史的イエスの肉体・身体を抜きにしては福音書の中のキリストの復活体(=聖体)はあり得ず、このキリストの聖体なしには、御父なる「神」にいかなる「体(からだ)」も認めることは出来ないのである。ヨハネ14章9節の「我を見し者は父を見しなり」というキリストの言葉は、「神」が福音書の読者である我々に対して、ご自分に「体(からだ)」があるということ、けっして得体の知れない存在ではないことを明示しておられることを意味している。では何故、「神」が直接、物語の中で「我に体あり。この体を見よ」と言って実体を現わし給わないのか?物語なのだから、そのへんはいかようにも出来るのではないか?なぜ、わざわざキリストをご自身の代役の如く用いるのか?という疑問が生じるかも知れない。その答えは先ほど述べたとおりで、「人として生きた『体(からだ)』以外に人格的存在としての『体(からだ)』はない」からである。だから「神の体」を身をもって現わすために神の御子(=ロゴス)という存在が「受肉」して人となるという物語が必要とされたのである。要は、神の「得体」を知るということは認識論的な事柄であって存在論的に考えてはならないということ。存在論的な「神の体」を、認識論的な「神の対象性」という意味で捉え直すということ。聖書の啓示における信仰対象として実在するのは、キリスト論的称号で呼ばれている史的イエスの個体・身体と、その「父」と呼ばれる「神」、そしてその「聖霊」の働きである。自由主義神学の歴史的批判的解釈によっても残る実在、およそ聖書を教典とする信仰である以上、これだけは残さねばならないという実在が、御父なる神とその御霊(の働き)と史的イエスの三者である。この点は後述する。

私とは対極的立場だが、同盟基督教団小海キリスト教会の水草牧師がブログで記しておられることを参考迄に引用させて頂く。
<コロサイ書1章15節が「御子は見えない神のかたちである」と述べる、「見えない神のかたち」という表現はなにを意味するのであろうか。神は「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。」(1テモテ6:16)とあるから、人間は神に近づくことも、見ることもできはしない。人が神を見ようとすることは、たとえば好奇心に駆られた研究者が望遠鏡で太陽を見ようとするようなものである。御子は、人が見ることのできない超越者を「見る」ことができるようにしてくださるお方であるという意味で「神のかたち」である。「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」(コロサイ1:19)ておられ、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」(コロサイ2:9)いるので、我々は御子を見るとき、御父を見ることができる。同様の思想は、ヨハネ福音書にも表現されている 。宇田進はコロサイ書1章15節に次のように的確な注解を付している。「神がどのようなお方であるかを知るために、私たちはイエスを見なければならない。このイエスは、人が見ることができ、かつ理解できる形をとった神の完全な表象であり、啓示なのである。 (中略)このようなわけであるから、神認識にあたってのキリスト論的集中というのは創造と保持における神と被造物との関係を基盤とした啓示のあり方からして必然である。御子は見えない神のかたちであって、見えないお方を見えるようにしてくださる唯一のお方であるからである。もしキリストを通さず哲学的思弁をもって神を知ろうとするならば、そこで見出された神は生ける真の神ではなく、スコラ学者たちが陥り、パスカルが非難した「哲学者の神」つまり抽象的な哲学概念としての神にすぎない。(中略)創世記1章の「神のかたち」とは御子であるという理解によって、御子の受肉の出来事が正しく位置づけられよう。オリゲネスは、次のように講解している。「したがって、この方の像の似姿として人間は造られ、このため、神の像であるわれらの救い主は、その似姿として造られた人間に対して共感の情をもっていたが、人間が自分の像を捨てて、邪悪な者の像をまとったのを見て、憐れみの情に駆られ、人間の像を自分のものとして、(人間の)許に来たのである。 」また、エイレナイオスは、次のように言っている。「『・・・(神は)人を神の似像として造ったからである。』そして、似像とは神の子であり、人間は(その神の子の)似像に造られたのであった。そういうわけで、『終りの時に』(その神の子は)似像(である人間)が彼自身に似ていることを見せるために『現れた』(Tペト1:20)のであった。 」すなわち、創造における「神の似姿」は御子であり、御子は人がご自身に似ていることを見せるために受肉したというのである。つまり、F.F.ブルースの言い方でいえば、人が御子に似せて造られたという事実が、後に御子が人となられたことを可能にしているのである 。受肉において御子が取った人性とは、堕落前の人性であり、その人性とは御子自身を範型として造られたものである。御子が人性をとったというのは、本来ご自身に似た者として造られた者の性質を帯びられたという事態であって、御子は似ても似つかぬものの性質を取ったわけではない。(中略)人は、本来「『神のかたち』のかたち」つまり、「御子のかたち」として造られた。アダムにあって堕落してしまった人間の品性は腐敗しているので、人間を観察しても神に似たところを見出すことはむずかしい。しかし、我々は「神のかたち」であるキリストを知っている。真の神であられたが真の人となられたキリストのうちには、堕落の影響をこうむっていない真の人性がある。キリストの全生涯に、本来の人性が現れている。その内容はあまりにも豊かで一言では表現しがたいので、ここでは御子の品性については、御子の御霊の実すなわち「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を挙げるに留めておく。(中略)「神のかたち」であるキリストに視点を定めるとき、さらに予定から御国の完成に至る神の計画全体をも見渡すことができよう。パウロはエペソ書1章4節で、「神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」という。この一節は、ローマ書8章29節「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたち(eivkw.n)と同じ姿(συμμόρφους)にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」と平行関係にある。「御子のかたちと同じ姿に予定された」というのは、「御前で聖く、傷のない者にしようと予定された」というのと同義であり、聖化の完成としての栄化を意味している。それは、罪を犯しえない自由意志を与えられた「善だけを行為するように、完全かつ不変的に解放され 」た状態である。(中略)人間が創造において範型とされた「神のかたち」とは御子であるという理解は、宣教上どのような益をもたらすであろうか。第一に、この理解に立つとき、旧約聖書と新約聖書のつながりが、明らかになる。創世記1章26,27節の「神のかたち」が、神の御子を意味しており、人は神の御子に似た者として創造されたという理解は、旧約聖書と新約聖書の一体性を明確にする。第二に、予定論・創造論・人間論・キリスト論・救済論・教会論・終末論の流れがキリストを一本の筋として簡潔に把握できる。神は神の民を世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、そしてきよい御子のかたちと同じ姿にしようと予定された 。神は、御子に似た者として人を創造なさったゆえに、創造論的にも啓示論的にも、御子は神と人および全被造物との間の仲立ちであられる。だからこそ御子は受肉して罪を贖って、救済論的にも仲立ちとなられた。御子の十字架の死と復活を根拠として義と認められた者は、同時に御子の御霊を受けて神の子どもとされ、キリストを長子とする兄弟姉妹の中で聖化の道をたどるが、その目標は御子イエスにますます似た者とされていくことにほかならず、それは終末における主の再臨と全被造物の更新において完成する。我々は、以上に基づいて、たとえば次のように聖書の教えを語ることができるだろう。「天の父は、人間を御子に似た尊い存在として造ってくださいました。だから、罪に堕ちてしまっている私たちをご覧になってかわいそうに思われました。そこで、御子は、私たちを罪と死から救うために、二千年前、自ら人となって私たちの歴史の中に来てくださり、イエスと名乗られました。御子イエスは、私たちの身代わりとして十字架にかかって死に、三日目に復活して、私たちの罪の償いを成し遂げてくださいました。御子イエスを信じる私たちは、神の子ども、神の家族とされたので、長子であるイエス様から目を離さないで日々ともに成長していくのです。」>(〜http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20111103/p2#c) 

「神のかたち」に関しては、旧約聖書学者の並木浩一氏が下記のように述べておられ、上記の新約聖書のコロサイ1:15などにみられる「神のかたち=キリスト」という解釈の、更にその思弁的な解釈などより、こちらの解説の方がより現実的であり有意義だと思う。すなわち、創世記1:27は「王=神の似像」という考え方への批判を意味するということ。
<「神の似像」としての人間の創造は革命的である
「神は自分のかたちに人を創造された」(創一27、口語訳)と記されています。新共同訳が「神にかたどって」ですが、私は気に入りません。「かたどって」というのは何か鋳型に押し込んだみたいです。本文は「かたどって」という動詞ではなく「かたちに」と名詞です。「神のかたち」「神の似像」に意味が込められています。これは古代国家批判の意図、王権批判の意図をはっきり持っています。なぜなら、、エジプトの文書でいちばん明らかですが、王は神の似像なのです。エジプトの場合は、ファラオは「現人神」です。オシリス神が最高神ですが、現世を生きているファラオは、オシリス神の息子であるホルス神として考えられていました。王は神の似像です。言葉を変えて言えば「現人神」です。日本も「現人神」というイデオロギーを振り回していました。敗戦の翌年の元旦に天皇の人間宣言が必要だったのです。それに対しバビロニアの王は現人神とは考えられません。バビロニアは諸民族が相対立して抗争していますから、王権を直接的に「現人神」とは神格化できないのです。その代わり、法的な感覚が発達していますから、王は神の代理人、代官です。神の地上における代官であるとは、実際上、王が神の似像なのです。このバビロニアによって、ユダ王国は叩きのめされたのです。神が王ではない一般の人間を神の似像に創ったという信仰は、この状況下では革命的です。>(『講義録 創世記を読む』〔日本ナザレン教団出版部〕85頁)

これはなおさら私の考えとは全く相容れないモルモン教の立場でのコメントだが、こと神体論に関しては反面教師的にではあれ批判的意味で参考になる点はあるので引用しておく。
(以下、引用開始)
真の神の概念は,現在のキリスト教では「見ることができず,からだも部分も欲情もなく・・・とらえつくすことができず」(ウェストミンスター信仰基準)等と表現されていますが,イスラエルの民が礼拝し,仕えてきた聖書の神,生ける真の神は,実態のない,宇宙にただよう漠然とした霊的存在の神ではなく,聴くことも,嗅ぐことも,見ることも,話すこともできない偶像のような神でもなく(詩編115:5〜7),聴くことも,嗅ぐことも,見ることも,話すことも,つかむこともできる,復活されたキリストと同様の霊の性質をもつ永遠の体,すなわちパウロが説明している霊性体を有しておられる,確かな存在なのです(第一コリント15:44)。ステパノは殉教の際,そのお二方を目撃しています(使徒7:55〜56)。
「百聞は一見に・・・」のとおりジョセフ・スミスは確かにその御姿を見て,その事実を知ったのです。天の神は,人にその姿を示されるときは,必ず御子と共に示されています。それが神の秩序だからです。ダビデも同様の見神をしていることがわかります(詩編110:1)。御子を通ぜずに神にまみえた人はいません。それが違訳され誤解されているのです。しかし,御子(エホバ)は,心から求める,ふさわしい者には単独で御姿を示されることがあります。彼は受肉される前は,エホバとしてイスラエルの民を直接導かれたお方でもありました。十字架につけられる前,エルサレムの街を丘から見て涙された主の想いは,単に主の伝道された3年間の想いだけではなく,そのはるか前からのエホバとして彼らを助け導いてきたことの深い愛と感慨の気持ちも込められています。
(以上、引用終わり)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10128547165?__ysp=6IGW5pu4IOelnuOBruS9kw%3D%3D


●「認識論的三位一体」

「神の体」の聖書的根拠を得るという観点で「三位一体」の教義をどのように受け入れるかを考えると、その場合の「三位一体」は伝統的な「存在論」的意味ではなく、また八木誠一氏のいわれる「場所論」的意味でもなく(「場所論」というのは「生成論」とも言い換え得るか?)、「認識論」的意味として理解されることになる。すなわち「聖霊により、イエス・キリストを通して(or 介して)、父を知る」という「神認識」としての「三位一体」であるから、「三者一心」の相関関係は聖書に明示されているのでよいが、聖書に記されていない「位」(hypostasis/persona)とか「体」(ousia/substantia or essentia)についてのギリシャ哲学的思弁は認識論的に捉え直されなければならない。特に、三者の「相互内在」(ペリコレーシス)という存在論的概念を認識論的に捉え直さなければならない。「御父・神」の存在を認識するためには、(福音書物語の中での「神」の自己対象化ともいえる)「御子・キリスト」の「体(からだ)」を通さなければならず、その「体(からだ)」を通して「神」の存在の確かさを感得するための「御霊」の働きがなければならない。この「神認識」における三者不可分の相関関係(バルトの言い方では「啓示者、啓示、啓示されること」)を存在論的には「相互内在」と言うのである。しかし、ヨハネ14:11などの、御父とキリストとの相互内在と読める文言は、従来のように実体論的・存在論的にではなく認識論的に解釈しなければならない。この「相互内在」を示す記事を、歴史的事実と区別される「神の物語」として受け取るにしても、その「物語」は歴史との連続性あってのリアリティーなのだから、歴史性が犠牲にされるような神話的読み方は避けて然り。実際に物理的には、イエスの内に御父がおられ、御父の内にイエスがおられたなどとは言えないからだ。そのような表現は象徴的にしか意味をなさない。

では、実体論・存在論をいっさい排してキリスト教たり得るのか?と言えば無論、そんなわけがない。だからこそ八木誠一氏も、場所論的神論を提示しながらも伝統的な実体論的神論を否定するのではなく、むしろ相補的関係として活かしておられる。私の言う認識論的捉え直しは、ただの認識論ではなく、「神体」論的認識論であり、あくまでも「神の得体が知れるため」の認識論である。従ってそのような認識論による捉え直しは、神論ではなくキリスト論についてなされるのであり(なぜなら聖書では、「キリストの体」を抜きにして「神」に対象性〔=体〕を認めることは出来ないから)、イエス・キリストを神と同定する考え方に対して(=ニカイア・コンスタンティノポリス信条とカルケドン信条に関して)である。

聖書の啓示における信仰対象として実在するのは、キリスト論的称号で呼ばれている史的イエスの個体・身体と、その「父」と呼ばれる「神」、そしてその「聖霊」の働きである。自由主義神学の歴史的批判的解釈によっても残る実在、およそ聖書を教典とする信仰である以上、これだけは残さねばならないという実在が、御父なる神とその御霊(の働き)と史的イエスの三者である。実体的な意味での「神人キリスト」なども天使だの悪魔だのといったものと同様に非神話化されてその存在が否定され残り得ない。
「(父なる)、(史的)イエス、(父なる神の)聖霊」の三者関係においては歴史的事実とは言えない、さりとて神話と言ってすまされない救済の「物語」がある。すなわち「受肉、贖罪死、復活、昇天、再臨」などであるが、それによってイエスは「神の子」ないし「神」と信じられている。私はその「物語」を、我々が創造主なる「神」を知るために与えられている資源であると解する。それは、繰り返すが歴史的事実ではない。しかし救済のために必要不可欠なものとしての積極的な意味がある。要は、伝統的教会のように、この「神の物語」(His-Story)を歴史(History)と混同して存在論的に受けとめるのではなく、あくまでも真の「神」を知り、「神」との関係をより正しく生きてゆくための象徴的メッセージと受けとめるのである。それによって「福音」が与えられるのだ。

聖書神体論は啓示認識論として展開されることになるが、私はその方面を掘り下げる気はあまり無い。とにかく存在論的アプローチは、せっかく「神」から与えられている知性を犠性にすることにもつながる無理な行き方である。無論、「神」は見えないし、イエス・キリストにしたって現代の我々には「見えない」存在にほかならず、宇田氏の「神がどのようなお方であるかを知るために、私たちはイエスを見なければならない。このイエスは、人が見ることができ、かつ理解できる形をとった神の完全な表象であり、啓示なのである。」という文句はタイムスリップでも想定しなければ実際には無意味である。ペテロなど、イエスの時代の人々が彼を見たからといって、そのことをもって現代の我々にとってもイエスが「神を理解できる形をとった神の完全な表象」であるという結論に飛躍することはできない。この宇田氏の発言は思弁にすぎない。
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。 」(Tペテ1:8)
聖霊の働きによってイエスを愛し信じることは出来る、それが賜物としての信仰だが、「見る」ということは文字通りには不可能である。現代人の我々はいかにしてイエスを「見る」ことが出来るというのか?まさか正教のイコンの如きものを見よという勧めではあるまい。だから、その「見る」というのは直観的意味で受け取るしかない。そうすると啓示認識論はイメージ論へと(瞑想ならぬ)迷走してゆき思弁の森深く歩み入ることになって、実に時間の無駄である。

我々は新約聖書のイエスの身体を抜きにしては聖書の御神体を語ることは出来ないが、イエスの身体イコール御神体ではない以上、ユダヤ教的可能性も、すなわちイエスの身体性を介さない神体直観とでも言うべき可能性を、各人に与えられている現実の対神関係において、すなわち旧約聖書の聖句のみによる黙想において、探り求めてみなければならない。神については何事につけてもキリストに集中しなければならないというのでは精神的に窒息しそうだし、そもそもイエスの神格化が前提とされるいかなる論も歴史的現実と会わない。歴史の現実に生きたイエスの身体性を介せば神体論がよりリアルになるといった考え方は、必ずしも成り立たないのである。ただし次のような考え方もある。

<教会も存在論的意味としては「キリストの体」などではないので神聖化することは許されないし、存在論的意味では、「キリストの復活体=聖体」は客観的にはどこにもありません。では、教会が「キリストの体」であるということの認識論的意味とは何なのでしょうか?それはこうです。聖書が示す究極の信仰対象(=主体的主体)である「御父・神」の「体」(=信仰対象としての「的」)を捉えるために必要な「媒体」としての信仰対象(=客体的主体)が「御子・キリスト」の「体」(=復活体=聖体)であり、その「キリストの体」を現代の我々は見たり触れたりすることは出来ないのでそのままでは「神認識」の「媒体」にはなりません。つまり「神」に「体」があることの保証にはならないのです。それが「媒体」となり「保証」となるためには、現実に史的イエスの身体を見て触った弟子たちのその感覚を「御霊(=御父から出て御子に宿る霊)」の働きにより祈りの内に直観として歴史的に継承されなければなりません。その継承の営みを中心とする共同体がキリスト教会であるということです。
ある著名な旧約学者は私への返信メールで、「私は聖霊の第三の次元としての、キリストのからだとしての教会(見える教会と見えない教会を超えた教会)としてのイエス・キリストの歴史的・実存的な存在形態においてのみ、信仰の根拠を見出しています。人格神の根拠もそのこととの関わりでしか語れません。」と語ってくれました。その「イエス・キリストの歴史的・実存的な存在形態」という言葉にも表されているとおり、教会論は存在論的に考えると「見えない教会」などという時空を超えた、まさに形而上学的思弁の茫漠たる領域で展開されることとなり、現場の信徒の日々の信仰生活にどのようなつながりがあるのかは遥としてわからない空話になるわけです。多くの信徒が不在の神学思想など何の意味もありません。>
(〜http://internetecclesia.blog.fc2.com/ 「通信制エクレシア 聖体教会」)


問:「認識論的三位一体」とは要約すればどういうことか?
答:教会の教義である「三位一体(論)」を従来の「存在論」としてではなく「認識論」として捉え直したもの。
問:しかし、「位」(hypostasis/persona)と「体」(ousia/substantia or essentia)は「存在論」の概念であり、これを「認識論」の概念とみなすことは無理ではないか?
答:たしかにカテゴリー的には無理である。従って「認識論的三位一体」は正確には「三位一体」ではなく「三者一心」であり、「父」と「子」と「聖霊」とが同じ心(=意思、認識)であることを前提として、「御霊により御子を通して御父を知る」ということ。
問:「三位一体」ではなく「三者一心」なら、なぜ「認識論的三者一心」とせずに「認識論的三位一体」と言うのか?
答:「三位一体」の教義そのものが聖書解釈の一つであって相対的なものだが、さらにその「三位一体」の解釈の一つとして「三者一心」というものもあることを示すことが主旨だから。
問:では「神体」というその「体」とは何か?存在論的概念ではない「体」など意味があるのか?
答:認識論的概念としての「体」であり、それは神認識の的として意味をなす。「得体の知れない」という場合の「体」であるから、存在論的な意味ではなく認識論的な意味なのである。
問:それは神の存在としての「体(からだ)」には関心が無いということか?
答:関心の有無以前に、神の「体(からだ)」を存在論的意味で語ることは、無制約の唯一絶対神を客体化して捉えることになる。簡単に言えば、「霊=非物」なる神を「物体」視することを意味し、これは聖書の啓示に反する。
問:では、御子を御父と同質(ホモウーシオス」の神であると信じないのか?
答:古代教会での三位一体論争は神を存在論的に規定しようとする試みであり、その特殊で相対的な神観を絶対化することは、いかに聖書解釈にもとづいていようと、ある種の偶像を作り出すことを意味する。これに対して聖書的キリスト教では、存在論的な事柄は信仰対象である「神、キリスト、聖霊」の三者の存在と相関を認めるという最低限度のこと以外、子細を断定せずに判断を停止する。存在論を子細にしてゆく「信条主義=教義本位」のやり方は各人の活きた対神関係を規制して信仰心を枯渇させ、聖書解釈ないしは信仰内容の多様性を失わせ、活きた共同体の形成を阻む。
問:それでは基本信条のニカ・コン信条やカルケドン信条を受けれ入れていることにならないのではないのか?
答:存在論的にはそうだが認識論的には別である。
問:そんな使い分けの詭弁が通用するのか?
答:「詭弁」というなら教会の護教的言説、教義講釈の方がよほど「詭弁」だと思うが如何?
問:Σ(☆ェ◎^;) ・・・・・


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヤフー「知恵袋」に出ている質問の中に次のような一文もあった。
<パウロによれば、「主は霊」ともいわれますが(Uコリ3:17)、同時に、神の右に座しておられるというキリストは、今もなお十字架につけられてしまったままでの姿なのです(Tコリ1:23他)。それは血を流した身体を含めてのことです。だから、三位一体の内で「子」であるキリストがこのような身体性を有する以上、神にはいかなる意味においても「体」が無いとは言えないのではないでしょうか?>
(〜http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10128547165

これは次の引用と関連していると思われる。
<「パウロにとって、今も生ける『復活のキリスト』の方が、過去の出来事としての十字架を担うキリストよりも重要であったということは、想像に難くない。にもかかわらず、パウロが、『十字架のキリスト』のみを知りたいと語るのはなぜだろうか。それはその『十字架のキリスト』のみが『復活のキリスト』でありうるから、という理由以外ではない。逆に言えば、上述したように『復活のキリスト』とは『十字架のキリスト』であり続けているということだ。そしてそのことは、ここで『十字架につけられたキリスト』と訳されているギリシア語の原文からも言える。なぜなら、そこでは現在完了形の分詞が用いられているのだが、ギリシア語における現在完了形は、完了した動作が今も継続しているということを強調して言い表しており、それゆえここは、『今も十字架につけられてしまったままでいるキリスト』と直訳することができるからである。」(青野太潮著『どう読むか、聖書』〔朝日選書〕p209〜210)>
(〜http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10128654790

青野氏の「十字架の神学」理解を存在論的に受け取ると、昇天して「神の右に座す」復活のキリストが、「今も十字架につけられてしまったまま」ということから、イエスは今も手足から血を流したままでいると解するようなことにもなりかねない。神は霊であり目に見えない非・物体的存在であると言われている以上、その三位格のひとつであるキリストが、血を流す肉体のままでおられるわけがないのである。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「キリストの体」を抜きして「神の体」はあるのか? 聖書の御神体/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる