聖書の御神体

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zoom RSS 聖書が示す「神」の顔

<<   作成日時 : 2014/02/08 17:32   >>

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聖書には創造主なる神(=ヤハウェ)の「顔=面」が示されており、それによって「神」が得体の知れないものではなく、我々が対面して人格的関係を持つことのできるお方であることを認識できます。ただし、旧約聖書学者の並木浩一氏が、御著書の『並木浩一著作集3 旧約聖書の水脈』(日本基督教団出版局)の中で、「神は『かたち』を持っておられる。それでは神の形はどんな外観なのか、人間に近いのか、などいろいろなことをすぐに想像したくなります。しかしそのように考えるのは、神様の顔はどんな顔かと想像するのとまったく同じで、聖書の言わんとするポイントを突いていない、そういう意味で不適当な発想です。」とか「神様はどのような顔をしているのかなどと考えることが的外れである」と述べておられるとおり(→当サイトの「(神の)名は(神の)体を現わす」参照)、教会現場で牧師が信徒に向かって、「神の顔はどのようなイメージでしょうか。優しくて頼りになる母のような顔ではないでしょうか。養母・養子の関係でも構いません。あるいは養護施設の先生の顔かもしれません。とにかく自分にとって、最も頼りになる優しい人の顔と、神の顔はそっくりなはずです。」(〜泉バプテスト教会 2015年11月15日礼拝説教「神の面前」 出エジプト記20章3節 )などと語ることは、失礼ながらあまり好ましいこととは思えません。「なぜならそれは信徒の信仰のあり方において、比喩的解釈の許容範囲を逸脱した「神」の人間化ないしは偶像化へのおそれがあると思うからです。
http://izumi-baptist.org/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E9%9D%A2%E5%89%8D-%E5%87%BA%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E8%A8%9820%E7%AB%A03%E7%AF%80-2015%E5%B9%B411%E6%9C%8815%E6%97%A5%E7%A4%BC%E6%8B%9D%E8%AA%AC%E6%95%99/

●「神」の「顔」(〔独〕Angesicht 〔へ〕パーニーム 〔ギ〕プロソーポン)について『旧約新約聖書大事典』には次のように書かれています。(※ヘブライ語とギリシャ語はカナ表記に変換。)
「神の顔という表現は、神像を用いる宗教に根ざした神人同形観である(ゼカ8:21−22の原文「ヤハウェのみ顔をなだめる」は「主の恵みを乞う」の意。「神の顔を探し求める」は「神殿に参詣する」の意。StB I, 206。ヘブ9:24の原文「神の顔に対して現われる」は「天に引き上げられる」の意)。神の顔を見ると死ぬ、といわれた(創32:30、出33:20など。→聖、不可侵性)。またそれと並んで、裁きを行う神は義人に恵み深く顔を向け(民6:25、詩22:24など。それはこの上ない好運として賛えられる)、一方、咎ある罪人からは怒りにうちふるえて顔をそむけ、顔を覆う(レビ20:6、詩34:16、申32:20など)という表象がある。この表象は、地上における支配者に対する表象をそのまま神に転用したものである。終末のときに神の顔を仰ぐ、という表象は、新約聖書で初めて知られたものである(マタ18:10、Tコリ13:12、黙22:4)。」(p289〜290)
ついでに「神」の「形」については・・・、〔独〕Abbild、Ebenbild 〔へ〕タブニート「型」(出25:9)、「像」(申4:16−18)、セレム「彫像」(サム上6:5、エゼ16:17)、「描かれた人像」、デムート「似姿」(王下16:10、イザ40:18、エゼ23:15、代下4:3) 〔ギ〕パラデイグマ、ホモイオーマ、エイコーン
<1.<旧約聖書>においてこれらのヘブライ語は、「像」を原型と同じ形のものとして表明するものであるが、その際は原型と像との本質的同一性が意味され、それがまた物体的同型性において示されている(王下16:10)。それゆえ人間は、神的存在と本質を一にするその「かたち」、似姿であり(創1:26〜27)、そのような者として神の大権を地上において現す存在である(詩8:5)。聖所は神によって示された原型を写した「かたち」であり、そのようなものとしてむなしいものである(民33:52、エゼ16:17)。→像 (中略)
2.神の形であることは、<ユダヤ教>では、形式的に理解された人間性を表す。すなわち善悪の認識と選択の自由(ベン・シラ17:1以下、スラヴ・エノク65:2)のことであり、あるいは律法に従って生き得る可能性のことである。>云々。(p298) 
以上、はっきり言って、意味不明な解説部分が多いといった印象を受けます。

●以下、勝村弘也著『旧約聖書に学ぶ 求めよ、そして生きよ』(日キ教団出版)より。
<神は、わたしたち人間の眼には見えない御方であるとよく言われます。これは単に、神が物質的な存在なのではないという意味なのではなく、神がわたしたちの想像を絶する御方であること、つまり、超越的存在であることを述べようとしたものでしょう。たしかにわたしたちの信じている神は、人間の感覚で直接とらえることはできませんし、その存在を論理的に証明することもできません。しかし、聖書は、神が眼や耳や手や足を実際に持っておられるかのように述べています。眼がないのに「神はその光を見て、良しとされた」(創世記1・4)というのは変です。神に耳がなくては「彼らの叫ぶのを聞いた」(出エジプト記3・7)とは言えず、「主よ、わたしのことばに耳を傾けて下さい」(詩篇5・1)との祈りは意味をもちません。神が食べてはいけないと命じられた木の実を取って食べたアダムとその妻は、神が園の中を「歩まれる音」を聞き、「神の顔」を避けて身を隠した(創世記3・8)と聖署は語っています。また出エジプトの出来事に関して、「主は強い手と、伸べた腕と」をもってイスラエルの民をエジプトから導き出された(申命記26・8等)と繰り返し述べています。神に関するこのようなものの言い方を、もちろん比喩的表現と呼んでもかまわないでしょう。神は実際には人間のように眼や耳のような器官を持ってはおられないのだと、一応考えられるからです。しかし、それにしても聖書にはこのような表現の何と多いことでしょう。単なる比喩とするには、あまりにも用例が多すぎます。それに、人間の創造に関して「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1・27)とも言われています。この箇所については、別に綿密な考察が必要なのかもしれませんが、素朴に考えれば、人間のからだにいろいろな器官があるのだから、神にも同じ器官があって当然ということになります。そして、このように考えて聖書を読んでいって特に矛盾するところは、多くはなさそうです。もっとも、「神さまって、どうやってわたしたちの祈りを聞かれるのかしら、いったいどんな耳をしてるのかしら」とか、「神さまって、男なのかしら女なのかしら」等と考えはじめると変なことになるのですが。
いわゆるヘレニズム時代になって、旧約聖書が哲学者たちの眼に触れるようになって以来、神の眼、耳、顔、手、足といった表現は、当然真剣な問題になりました。神学者たちは、これをアンスロポモルフィズム(Anthropomorphism)と呼ぶことにしました。日本語には、<神人同形法>(『キリスト教大事典』参照)とか<擬人神観>(『旧約新約 聖書大事典』参照)と訳されています。たしかにこのような表現によって、聖書の神が、自然の諸力を神格化したものでも人間の論理的思考の結果として要請される存在でもなく、人間と出会う生きておられる御方であることが知られるのです。聖書の神は、人間を限りなく愛されるがゆえに、また悩まれるような御方なのです。ホセア書には、神のことばとして「わたしは神であって、人ではない」とありますが、これは神の「心」が人間の予想をはるかに超えて慈愛に富むものであることを述べる文脈に出てくるのです(11・8−9)。神は人間のように家には住まないと、その超越性について語る同じ箇所で、神の「足台」や「手」が問題になっています(イザヤ書66・1−2)。聖書の世界では、神人同形法によらずに神について語ることはおよそ不可能だとさえ言えるでしょう。
(中略)旧約には精神と肉体とか、観念の世界と物質の世界の対立のような二元論はないとよく言われますが、このことと、世界で起こるさまざまな事象を具象的に表現しようとする態度との間には明らかに関係があります。人間が<からだ>であるよりも前に、精神的な存在であるとか、肉体よりも精神の方がすぐれているというような考え方は、旧約にはありません。したがって、人間と神とは別であるのは当然ですが、神を<からだ>として表現することには、単に比喩としてそのように語ること以上の意味があるのではないでしょうか。>(p32〜35)

創世記は1章1節から2章4節aまでは祭司資料(P)で、この3章はヤハウィスト資料(J)です。その特徴として神が擬人的に描かれることが指摘されます。ここの箇所は、2の創世記1:26aとも関連して、対神関係の現実を自覚させられる言葉です。十戒の第一戒で「わたしの面前で君は他の神々を持ってはならない」(関根正雄訳)とあるとおり、我々信者は御父であるヤハ神の面前に生きるのであり、アダムはヤハ神の「顔を避けて園の樹の間に隠れた」(創世記3:8 関根正雄訳)のでした。だから彼が本来あるべきところは「神の顔の前(=面前)」だったのです。ここで「神」は「ヤハウェ エロヒーム」(主なる神)と書かれています。「顔を避けて」は、直訳では「顔から」(「ミペネー」=「ミ」〔前置詞:〜から〕+「ペネー」〔=「パーニーム」(複数形の「顔、面」)の変化形〕)です。原文には「隠れる」(ハーバー)という言葉はありますが「避ける」を意味する言葉がありません。「避けて」は関根訳だけではなく月本訳から中沢訳から新共同訳から口語訳から新改訳すべてにわたって使われている言葉です。しかし「避ける」というより「逃れる」といった感じで、「神」の顔から園の木の間に隠れたのだと解します。
ところで、「神の面前に」と言う場合は、創世記18章22節に「主の面前に」(リフネー ヤハウェ ※原文では「YHWH」は「アドナイ」と読む)とあるとおりで、「リフネー」は前置詞「リ」(ラメド:〜に)+「フネー」で、「フネー」=「ペネー」(顔、面)です。前置詞「リ」は「〜の前で」をも意味するとの説がありますが、本来的には「前」という意味はないでしょう。直訳すれば「主の顔に)」です。ただし「リ」の「〜に」は方向を示す意味で、場所を意味する「〜に、〜で」を表わす前置詞は「ベ」(ベート)です。「フネー」の「フ」という発音は、「ペネー」の「ペ」に無音シェワーが付くことによるものです。創世記4章16節では、アダムの息子カインが弟アベルを殺害した罪(=「アーヴォーン」は「咎」とか「不正、不義」とも訳される「罪」で「罰」も意味する)で流浪の身となり、「主の面前から」(ミリフネー ヤハウェ)出て行ったと書かれています。「罪」と訳されている一般的なヘブライ語は「ハッタート」、そのギリシャ語における対応語は「ハマルティア」で、どちらのもその動詞形(「ハーター」、「ハマルタノー」)は「外す」ことを意味するとの説があります(〜「ものみの塔 オンライン・ライブラリー」の「罪」の項。なお私は「異端」といわれている団体からも学ぶべきことがあれば学びます。その点では是々非々であり、いかに「正統」といわれている団体の発信でも誤りだと思うことは批判し、議論できる場合は議論して相互理解を深めています)。
『旧約新約聖書大事典』(教文館)の「罪」の項目(p767)では「ハッタート」は「過失」で、動詞「ハーター」の元来の意味は「道を誤ること、それて行くこと」だと言われています。そして「アーウォーン」は「元来曲がったもの、もはや真直ぐでないもの」を示し、「ハッタート」に比して主観的要素が強いとも言われています。小聡氏も同様に、「罪を表現するヘブライ語はハッタート(ハーター)です。これは、基本的に『的を外す』あるいは『目的から逸脱する』という意味です。ごく日常的な過失や失敗をこのハッタートで表現します。」と述べています。また、前述の「アーヴォーン」(=アーウォーン)や「ペシャー」については、「過失や失敗という程度ではなくて、神に対する背きや反逆という強烈な意味を有します。これらのヘブライ語は、興味深いことに『罪』という状態だけではなく、それによって引き起こされる結果をも意味します。『罪』には罪の結果としての『刑罰』も含まれ、罪から刑罰に至るプロセス全体を指す」とのことです(〜『福音主義教会連合』2007年11月10日 「《シリーズ》 信徒のための旧約用語基礎知識 第17 罪」。このように、私は自分の信仰的立場と異なる団体からも、学ぶべきことは学びます。是々非々の姿勢。)。だからこそカインは「大きくて負いきれない」と言ったのであり、そこにこの「罪」の性格が如実に表わされています。しかしそのような「罪」であり「咎」であり「不正、不義」であっても、贖われ、赦されるということが旧約聖書の中にも告知されているのです(イザヤ44:22他)。新約ばかりが福音ではありません。「ミリフネー」の「ミ」は「リ」と同じく前置詞で「〜から」を意味します。いずれにせよ、人間が「神の顔」を避けるということは、「的はずれ」(ハマルティア)な生き方としての「原罪」を象徴的に示し、これを自覚するのは「裸」(エーローム)の自分です。

●『聖書名言辞典』(講談社)より
ヤハウェの顔が行く
わが顔が行く。そしてわたしはあなたに休息を与える。(出エジプト記33-14)
『わが顔』は神自身をさす。頑固な民の指導に疲労困憊するモーセをいたわり激励する神の、深い思いやりと決意の現われた言葉。」(p103)

●「神の顔」(を見ること)と「罪」との関係について。
詩篇11:7「まことにヤハウェは義しく正義の業を愛し、直き者たちこそかれの顔を視る。」(岩波版.松田伊作訳)この句の注には、「聖書の世界では神(の顔)を見/視た者は死ぬとされている(出一九21、三三20、士師六22、一三22等)から、これは神殿における神の祭儀的な降臨に立ち会うことであり、要するに罪を赦された義人こそ神殿に立つことができることを言ったものだとされる。」と記されている(26頁)。
少なくともモーセは神の「後ろ」(アーホール)を見ることが許されたのであり、ヤハウェはそのような意味での認識対象となり給うたとも言えるだろう(出エジプト記33:11他参照)。また、神聖法典の用語法の「私の顔を与える」は神の怒りと処罰の意志を表すとのこと(岩波版レビ記17:10の注参照)。

●「神の顔」(を見ること)と終末論的救済との関係について。
「牧師の書斎」の<結論 2 神の救いの究極としての「神の御顔を仰ぎ見る」世界> より。
<神の最終的な救いの目的は、「神の御顔を仰ぎ見る」ことである。これは旧約時代にはあり得なかったことであり、モーセでさえ神の後ろ姿を見ただけであった。神の臨在に満ち溢れた礼拝の究極とは、神の御顔を目の当たりに「仰ぎ見る」ことにある。
1. 神の御顔が意味するもの
神と「顔と顔を合わせて」(face to face)まみえる交わり、ただ神とだけ共に過ごす交わりが存在する。といっても、やがてもたらされるであろう完全な視力と比較すれば、「私たちは鏡にぼんやり映るものを見ている」(Tコリント13章12節)にすぎない。「顔と顔を合わせて」神と交わることは、神の子どもである私たちの生まれながらの権利である。しかし、今日のあらゆる知識にもかかわらず、すべての神の子たちが、神との直接的な交わりを持つほどに、神を知っているわけではない。>
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6%95%91%E3%81%84%E3%81%AE%E7%A9%B6%E6%A5%B5%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%80%8C%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%BE%A1%E9%A1%94%E3%82%92%E4%BB%B0%E3%81%8E%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%80%8D%E4%B8%96%E7%95%8C

ちなみに、「神の前に(で)」(coram Deo)は、宗教改革の神学における鍵語でもあります。(参照URL:http://www.calvin.org/colamdeo1.htm) キルケゴールの宗教的実存も「神の前に(で)」(vor Gott)という語を抜きにしては語られません。そして現代ではD・ボンヘッファーの「われらは神なしに神の前に神と共に生きる」(Leben wir vor Gott, mit Gott, aber ohne Gott)という言葉が有名です。しかし、ラテン語にせよドイツ語にせよ、そしてその訳語の「神の前に(で)」も、聖書の原文では「神の面前に(で)」であり、「面=顔」という語が抜けているのはどうかと思うのです。

以下は、聖書とはあまり関係ないが、同じ一神教で「神の顔」に関するということで参考までに引用。
井筒俊彦著『「コーラン」を読む』(岩波書店)によると、クルアーンでは「神」に99もの名があり「ジャマール系」と「ジャラール系」とに分かれる。言わば、前者は「神」の「愛」の面で後者は「怒り」の面。「ラフマーン」(慈愛)や「ラヒーム」(慈悲)は形容詞。普通名詞の「アッラーフ」(アル+イラーフ)だけが「綜合的神名」(ジャーミウ)という。「イラーフ」はヘブライ語の「エロヒーム」と同じ語源の普通名詞だが、アラビア語で「アッラー」というと「エロヒーム」ではなく「ヤハヴェ」(井筒氏の音訳)に該当するという。それはそうだろう、クルアーンでは「アッラー」が神の名前になっているのだから、普通名詞の固有名詞的用法とでも言えるだろう。
クルアーンで「慈愛」とか「慈悲」を意味する形容詞が「神の名」として用いられていることは、聖書の「神は愛なり」を解釈する上で参考になる。つまりこの場合の「愛」は「神の名」なのだ。「神」を形容する言葉の中で最も代表的なものであるから、強調表現としてこのように断定的に言われているものと解される。けっして「神=愛」ということではない。「神」の実体なり本質が「愛」だというなら、逆に「愛=神」という命題も成り立つはずである。しかしそれは神学者も否定する。だから「神は愛である」という命題を実体的に解釈することは文脈的にみて誤りなのだ。そもそも「神は愛なり」の「愛」は比喩であって「神そのもの」ではない。
「神」は無制約であり人間には本来的に不可知な存在であるという。それが「神」についての前了解というか原定義である。なぜなら「神は不可知である」という判断それ自体の根拠も自明ではないからだ。人間が「神」を定義して概念とすることによってはじめて、可知であれ不可知であれ「神」について語り得るのだ。人格神は本来不可知であるとしても自然神はそうとは言えない。
さて、不可知なる人格神を人間が知り得ることについて、井筒氏の前掲書には次のように書かれている。
<「アッラーの御名」はアッラーという名という意味。アッラーという名前、であって、アッラーがもっている名前ではないのです。つまり、ここでは名前が実体と区別されていない。名前、すなわち、そのもの、なのです。(中略)本来、神は絶対不可知です。Deus absconditus というコトバがありますが、「隠れた神」、神そのものは絶対に姿を見せぬ、幽玄の極、「玄のまた玄」です。考えようとしても、手がかりも何もありはしません。取り付く島もない。そういう側面において、神は絶対超越者です。これを「隠れた神」という。ところが、この「隠れた神」は、また自らを現わす神でもあるのです。Deus revelatus 、文字通り、覆いを取り去られた神、自己顕現する神。但し、現われるとか顕現するとかいっても、イスラームの考えからすると、視覚的に姿を見せるというわけではありません。ちょっとパラドクシカルに聞えるかも知れませんが、不可視的に姿を現わすのです。そして、不可視的に姿を現わすその現われ方が名なのです。名前を通じて自らを現わす。人は神を、ちょうど事物を見るように、目で見ることはできないが、名前を聞くことによって、その名の指示する意味を手がかりとして、本来不可知な神になんとなく近付く、とでもいったらいいでしょうか。この意味で、神の名は、神が自らを人に現わす霊的な姿形なのです。(中略)神に九十九の違う名前があるということは、イスラーム的に申しますと、神は九十九の顔をもっているということです。イスラームでは「神の顔」(wajh Allah)という大変イマージュに富んだ表現をよく使います。(中略)「顔」――ラテン語のペルソーナ(persona)という語をご存知ですか。ラテン語のpersonaは、英語などでpersonとかpersonalとかいう語のもとです。これは今では、普通、人格という意味で使いますが、もともとは「お面」、演劇の舞台で役者がつけて出てくるマスクのことです。日本でも能面というのがありますが、役者の本当の顔を隠して、その人を劇の役柄に変貌させる作られた顔です。但し神の場合には、本当の顔というのはない。強いて本当の顔を考えるとすれば、無の顔なのです。だから、神が人間に見せるものは仮面でしかあり得ない。示された仮面をとおして、その彼方に、人は神の姿をわずかに垣間見る。その仮面、が名前なのです。神は人間に、その場その場で、いろいろ違った顔を見せる。つまり神には幾つも違った名がある。ここで、名とは、鏡に映った神の顔です。鏡面上の神の映像は神のかげであって、神そのものではありません。しかしまた逆に、神そのものは、元来、無であるゆえに、鏡に映さなければ誰にも見ることができないのです。>(p79〜86 ※本文の傍点や発音記号は省略。)
<神の名、アッラーにせよ、ラフマンにせよ、ラヒームにせよ、神の名が、イスラームにとって、なぜそんなに大切なのか。それは、このあいだもちょっと申しましたが、神がその名をもって出てくるということは、神が存在の次元に姿を現わしたということであるからです。「隠れた神」、絶対不可知、不可能、不可触、絶対超越、人間とのあいだには絶対的な断絶を置く神が、自らを現わして「現われた神」になる、そしてそれによって、神と人との間の本源的断絶がある意味で架橋される、その重要な橋の役をするものが神の名なのです。人間の喚びかけに応じて、神がその名前の一つを通じて姿を現わす。名を通じて神が人に語りかけてくる、それが啓示です。(中略)イスラームばかりではなくて、広く『旧約』なども含めて、セム民族的な宗教感覚では――古代社会では、どこでもそうかも知れませんが――名があるということは存在するということなのです。何かが特定の名をもっているということは、そのものが存在するということ。従って、ものの名を知ることは、そのものを自由に処理する力をもつことです。だからこそ、みんな名前をできるだけ隠すのですね。名前を知られたら大変なことになる。とにかく、名があるということは、存在するということ。逆にいうと、名前がないものは存在しない。そういう存在論的な重みが名前にはあるのです。>(p108〜111)
ちなみにこの本では、モーセの十戒の第三戒についてこのように言われている。<「汝の神エホバの名を口にすべからず」と書いてあります。「エホバの名」(shem Yahweh)というふうに、ちゃんとエホバ(ヤハヴェ)の名が挙げられております。ですから、モーセが十戒を授けられた頃は、ヤハヴェという名は口にされていたに相違ありません。だいいち、この第三戒に出ているのですから、ヤハヴェという名をあだおろそかに口にしてはいけない、と。だから、むやみやたらでなければ、口にしていいことになっていたわけです。それが、ユダヤ人特有の敬虔的秘密主義とでもいいますか、神の名を秘す、ヤハヴェという名を隠して口にしないように、だんだん、なっていくのです。とにかく、後世のユダヤ人は、みだりに口にすべからずというこの禁止を極端にもっていくのです。>(p107)
J・グニルカ著矢内義顕訳『聖書とコーラン どこが同じで、どこが違うか』には次のように書いてある。
<「名」は、セム系の言語圏では、単に何か、誰かを表示するものではなく、その本質をあらわにする。>(p87)


●「存在の類比」と「関係の類比」について・・・以下は佐藤優著『神学の履歴書 初学者のための神学書ガイド』(新教出版社)より。
・「存在の類比」について
<神が世界を創造したという事実は、神と世界との間の基本的な「存在の類比(analogia entis)」を指し示している。世界の存在における神の存在の表現ということに基づく神と世界との間の連続性がある。こういうわけで、被造秩序の中にある実体を神の類比として用いることは正しい。このようにすることで神学は、神を造られた客体や存在に引き下ろすのではない。神とその存在との間に類似性や対応があるということを肯定しているに過ぎない。これによって後者は神を指し示すものとして働けるようになる。造られた実体は神に似ているが、神と同一であることなしに、そうなのである。
結論から言うとプロテスタント神学は「存在の類比」の立場をとらない。しかし類比について理解するためには、「存在の類比」という考え方を知っておく必要がある。(中略)
トマス・アクィナスの「存在の類比」
「存在の類比」の立場に立つならば、この世界にある王、貴族などの支配する人々と支配される農民の間に存在する秩序は、神の中にある秩序と対応していることになる。従って、このような秩序を崩そうとすることは神に対する反逆となる。(中略)
アクィナスが言いたいことははっきりしている。神の自己啓示が日常的な存在である我々の世界と結び付いている像や観念を用いるというのである。とはいえ、そうした像や観念は神を日常世界に引き下ろしはしない。「神は我々の父である」と言うことは、神はただ、もう一人の人間の父親に過ぎないと言うことではない。(中略)人間の父親について考えることが神について考える助けになると言っているのである。これは類比である。あらゆる類比がそうであるように、成り立たなくなるところがある。しかしながら、類比はなおも神について考える上で非常に役立つ。また生き生きとした仕方なのである。これによって我々は、我々の世界の語彙と像を用いて、究極的にはそれらを超えているものを記述出来るようにされることになる。
「神は愛である」と言うとき、我々は我々自身の愛する能力のことを言っているのであり、この愛が神において完全である場合を試し、想像するのである。「神の愛」を人間の愛の水準にまで引き下ろすのではない。そうではなくて、ここに示されているのは、人間の愛が神の愛の表示となるということであり、この表示はある限界の中で神の愛を写し出すのだということである。>(p193〜196)※「結論からいうと〜反逆となる。」の部分は佐藤氏の言葉で、その他はアリスター・E・マクグラス著『キリスト教神学入門』(教文館)からの引用部分。
・「類比」、「たとえ」、「イメージ」と「啓示」との関係について
<イエスはたとえ(譬)を頻繁に用いた。重要なことはたとえによってしか語らなかったと言ってもいい。類比やたとえは、具体的なコンテクストの中で解釈される。このコンテクストを無視すると、類比やたとえは、矛盾した言説を並べるだけのことになってしまう。「どのようにすれば、人間は救済されるか」という目的から、類比とたとえを解釈するのである。具体例についてマクグラスはこう述べる。
どのように像(イメージ)が相互作用するのかの例を挙げることで、このことは、もっとはっきりするであろう。王・父・羊飼いという類比を取り上げてみよう。これら三つは、それぞれに権威という観念を伝えるものであり、我々の神理解にとって根本的に重要なものである。しかし、王というのは、しばしば恣意的にふるまい、いつも臣下の最善の利益に適っているというわけではない。こうして、王としての神という類比は神がある種の暴君であるという誤解を生みかねない。しかしながら聖書の挙げている父の子に対する優しい同情(詩一〇三・一三― 一八)と、群れの益のために完全に献身する善い羊飼い(ヨハ一〇・一一)によって、それは意図された意味ではないことが示される。権威は穏やかに賢明に用いられるべきものなのである。こういうわけでアクィナスの類比の教理は、我々が神について考える仕方にとって根本的に重要である。それは聖書の像や類比を通して神が自らを啓示する仕方に光を当て、どのようにして神が我々の世界を超えていることが出来るのか、また、同時に世界の中で、世界を通して神が啓示されるのかを理解出来るようにしてくれる。神は時空の客体や人格的存在ではない。それにもかかわらず、そのような人格的存在と客体が神の性質と本性についての我々の認識を深めるのに役立ち得るのである。無限なる神は人間の言葉と有限な像において、また、それらを通じて啓示されることが出来る。>(p201〜202)
・「隠喩」と「関係の類比」について
<類比(analogy)においては、二つの概念の間に連続性がある。これに対して隠喩(metaphor)とは、通常は連続していないと思われる他のものによって別の事柄を語る方法である。隠喩もキリスト教神学において、きわめて重要な表現形態である。(中略)
隠喩とは、あるものを他のものを示唆する言葉によって語る方法である。(中略)
類比は適切であると思われるもので、隠喩には驚きの要素、初めには疑い深さの感覚がある、と。例えば、次の二つの文章を考えてみよう。
1 神には知恵がある。
2 神は獅子である。
第一の場合、神の本性と人間の「知恵」の概念との間に類比の関係があることが主張されている。言語的にも存在論的にも、人間の知恵と神の知恵の概念の間に直接の並行関係があることが示されているのである。人間の知恵は神の知恵の類比として働く。この比較には驚くようなことは何もない。第二の場合の比較はある程度の驚きを引き起こし得る。神を獅子と比較するというのは適切なこととは思われない。神と獅子との間にどれほど類似性があろうと、明らかに沢山の相違もある。一部の現代の思想家たちにとっては、隠喩は類比と相違の混合であり、比較される二つの客体の間には並行関係と相違との両方があることが強調されている。(中略)
詩的隠喩によって、常識の壁が突き破られるのである。それと同時に、隠喩だけに頼るのではなく、類比的な見方ができるかどうかについても常に考えなくてはならない。例えば、「ヨハネによる福音書」の冒頭について考えてみよう。(中略)
ここで言う光はまさに隠喩だ。「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」というのは詩的言語だ。これによって、光に人間の救済を、暗闇に人間の罪を感じることは容易だ。ただし、神学としてはその先に進まなくてはならない。この箇所は神学的には旧約聖書「創世記」の冒頭との「関係の類比」によって、解釈されるべきである。(中略)
「ヨハネによる福音書」の冒頭の「初めに」とは、天地が創造された初めのときのことだ。このときに神は「光あれ」という言葉を発した。この神の言葉から光が生まれたのである。「ヨハネによる福音書」が書かれた当時のユダヤ教信仰では、言葉(ギリシア語のロゴス)は、天使的な存在として創造行為を媒介すると考えられていた。現代人は、言葉と光をこのように関連づけることはできない。しかし、当時の人々の理解を追体験することは、神学的訓練を積むことによって可能になる。「ヨハネによる福音書」の著者は、光という表象で、キリスト教の目的が「永遠の命」を得ることであるということを人々に伝えようとしていたことがわかる。キリスト教が救済宗教であるという本質に変化はないが、「ヨハネによる福音書」の著者はその救済を「永遠の命」を得ることと考えた。この「永遠の命」という考え方は、「創世記」冒頭の創造物語との「関係の類比」によって導かれたのである。
隠喩の濫用は言葉遊びに過ぎない。言葉遊びは神学ではない。隠喩を神学の枠組みの中にとどめるためにも、聖書のテキストの類比的解釈の可能性を常に追究するという姿勢を崩すべきではない。>(p203〜212)※「隠喩とは、あるものを〜強調されている」が引用部分で、あとは佐藤氏の言葉。

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