聖書の御神体

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<<   作成日時 : 2014/01/01 09:58   >>

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以前、ネット上で出会った神秘主義的トリニタリアンの「ニュッサのグレゴリウス」さんが作った「神」と題する詩でうたわれている「絶え間なき流れ、愛の流れ、絶え間なき愛の生成」などといった流(動)体のような非実体的でつかみどころのないイメージも、聖書的神観の主流である人格主義的神観とはなじまないと感じる。少なくとも自分にとっては精神不安定になる神観である。八木誠一氏の言われる「場所論的」な神観であろうか。それは神を観るというより感じているように思われる。「(源)泉」の比喩(イザヤ12:2〜3、エレミヤ2:13、17:13他)や「(川)水」の隠喩(詩42:2〜3)のイメージとか流出説の「一者」的イメージならまだ共感し得る部分もあるが、おそらくそういうことではなかろう。
旧約聖書のゼファニヤ3:17や新約聖書のエフェソ4:6などのように、「神」が個人に内在することを示す一部の証言をもって「神の内在」を強調することには反対(ホセア11:9、ヨエル2:27、ミカ3:11などの集団への「神の内在」は、ここでは問題外)。聖書の神啓示の大部分は「超越」的である。たとえイエスの言葉に、「父が私のうちにいる」(ヨハネ14:11)とあるように、聖書の中に人間個人における「神の内在」と解され得る表現があろうとも、そして聖書が示す神が自由自在で遍在する(詩篇113:4〜6、139:7〜12 その他)と解し得るとしても、(神には神の主権にもとづく自制の御意志もおありだろう。全能で絶対者だからこそ自己限定・自己相対化することも出来るのだ)、私は「神の内在」、「神の遍在」ではなく「神の霊の内在」、「神の霊の遍在」として受け取る。どうしても「神」を主語にする必要があるとすれば、「霊を介しての神の内在」、「霊を介しての神の遍在」として語る。しかしそういうことも、前述のとおり「汎在神論」を聖書的神観として受け入れるなら問題ではなくなる。しかし疑問は残る。

ちなみにモルモン教は、「御父と御子は触れることのできる骨肉の体を持っておられる」などと言う点で全く自分の信仰とは相容れない。一方こちらはエホバの証人(JW)だと思うが、「御霊を通して遍在される」という表現については、ただ、神ご自身が遍在されるとしか言わない神学的言い方に比べれば共感し得る。詩篇139:7でも「あなたの霊を離れて」という言葉があることに注意すべき。誰が言い出したのかは知らないが「神は細部に宿る」というのは誤りで、「神の霊は細部に宿る」というなら可とし得るかも知れない。「あなたの顔」は神の人格を示す言葉である。私自身の「神関係」の実感では、神は身体こそ有しないにせよあくまでも関係の対象たる「実体」がある。「ヤハウェ」の御名はそれ相応の「体」を現わしているのだ。だからその座するところは主として「天」(詩篇11:4、14:2、33:13〜14他)に象徴される超越次元にあるのであり、その超越者が被造界に直接内在されるということはない。キリスト教の主流ではイエスという人物を介しての内在となるが、私はイエスを通して内在されたのではなく、イエスに充満された「神の霊」を通して内在されたのだとみる。そして今も「神の霊」を介して遍在しておられ、その「体」はあくまでも御座である「天」に在るとみる。
出エジプト記25:8節で、「こうして彼らに、わたしのために聖所を作らせなさい。そうすれば、わたしは彼らの只中に宿るであろう。」と言われているのは、ルカ17:21の「只中」の解釈と同様、働きとして捉えて然り。この場合は神ご自身が存在論的に聖所に内在するというわけでは、もちろんなく(列王記上8:27他参照)、神の霊の働きであり、宿るのは聖霊だ、ということ。このような点はJWの以下のサイトが参考になる。
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2011572?q=%E9%81%8D%E5%9C%A8&p=par
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/102005167?q=%E9%81%8D%E5%9C%A8&p=par
https://www.jw.org/ja/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88/%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%BD%8F%E3%81%BE%E3%81%84/

<「神は霊であ(る)」とイエス・キリストは言いました。(ヨハネ 4:24)霊者は,人間とは異なる生命形態です。人間の目には見えませんが,体があります。それは「霊的な体」です。(コリント第一 15:44。ヨハネ 1:18)聖書は比喩表現を用いて,神には目,耳,手があるとさえ述べています。* 神には名前もあります。エホバという名です。(詩編 83:18)ですから聖書の神は,霊的な体を持つ人格的存在です。(ヘブライ 9:24)「生ける神,定めのない時に至るまで王」なのです。―エレミヤ 10:10。>(〜「ものみの塔」〔2004.05〕の「あなたは神を喜ばせることができます」)http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2004361#h=3:0-4:213
ここでの問題点は、ヘブライ 9:24のように聖書箇所が教理内容と合っていないこと。

下に引用した2つの文章でも同様。(1)は、「神は霊的な体をお持ちなのでしょうか。」という問いに対して、「そうです。」と肯定しているが、ヘブライ 9:24はその根拠となる聖句としては弱いし、(2)も「神」が住まいを持っておられる根拠としてこの聖句を出しているが、それは他に挙げている聖句でよいのであり、ヘブライ 9:24は不適当。JWの聖句解釈も、改革派のウェストミンスター信仰基準における聖句解釈のように牽強付会的な面がある。教条主義的聖書解釈は似たようなことになるのだろう。ただし文章全体の内容には共感できる(特に、赤字部分)。

(1)<『いまだ神を見た人はおらず』,「神は霊であられ」ます。(ヨハネ 1:18; 4:24)とはいえ,神はどんな体も持っていないというわけではありません。聖書は,「物質の体があるなら,霊的な体もあります」と述べています。(コリント第一 15:44)では,神は霊的な体をお持ちなのでしょうか。
そうです。イエスは,復活した時に『天そのものに入られ,今やわたしたちのために神ご自身の前に出て』くださっています。(ヘブライ 9:24)この言葉から,神に関して二つの重要な点が分かります。神には住まいとなる場所があるということ,そして,神はあらゆる場所に存する漠然とした力などではなく,人格を持つ方であるということです。>(〜「ものみの塔」〔2009.02〕の「神は人格を持つ実在者か」)
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2009081?q=%E9%9C%8A%E7%9A%84%E3%81%AA%E4%BD%93&p=par

(2)<神を信じる多くの人は,神を人格的存在ではなく,力と考えています。例えば,ある文化においては,神々が自然の力と同一視されてきました。宇宙の構造や地球上の生命の本質に関する科学的な研究を通して集められた証拠を検討し,第一原因がなくてはならないと結論した人々もいます。しかしそうした人々も,その原因に人格があると考えることにはためらいを覚えます。しかし,創造物に見られる複雑さは,その第一原因が偉大な知能を有していたに違いないことを示しているのではないでしょうか。知能を働かせるには,思考力が必要です。すべてのものを創造した偉大な思考力は,人格的存在である神のものです。そうです,神は体を持っておられます。わたしたちのような物質の体ではなく,霊的な体です。「物質の体があるなら,霊的な体もあります」と聖書は述べています。(コリント第一 15:44)聖書は神の性質について説明し,「神は霊であられる」とはっきり述べています。(ヨハネ 4:24)霊は,わたしたちとは大いに異なる生命形態を持ち,人間の目には見えません。(ヨハネ 1:18)目に見えない霊の被造物も存在します。それは,「まことの神の子ら」であるみ使いたちです。―ヨブ 1:6; 2:1。
神は,他のものによって創造されたのではない人格的存在で,霊的な体を持っておられるので,論理的に考えて住まいもお持ちです。聖書は霊の領域に言及して,天は神の「住まわれる定まった場所」であると述べています。(列王第一 8:43)さらに,聖書筆者パウロは,『キリストは天そのものに入られ,わたしたちのために神ご自身の前に出てくださる』と述べています。―ヘブライ 9:24。>(〜「ものみの塔」〔2002.05〕の「神とはだれですか」)
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2002361?q=%E9%9C%8A%E7%9A%84%E3%81%AA%E4%BD%93&p=par

ちなみに下記の文言を述べている人物はJW批判者の福音派牧師とのこと。
<論述の出発点で、神は「霊者」であると言われる(第1段落)。そして、「霊者」は「霊の体」を持つと言われている。続いて「神は、霊の体を持つ実在者ですから、住む場所もお持ちであるに違いありません。」(第2段落)として、「天」こそが神の住まわれる定まった場所だと述べる。このようにして、神の遍在性が否定されている。そして、第3、4段落で、神が宇宙のあらゆる場所でその力を働かせて活動することができるのは「目に見えない神の活動力である聖霊」によってであると述べる。父なる神と聖霊との間にある種の役割分担が考えられているようである。>(→この文章が書かれていたサイトは現在は削除されているらしく検索できない。)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11128894916
「霊(の)体」といっても似非宗教等の用語とは明確に区別されねばならない。また、一部の聖句により御子イエス・キリストが創造者とされるが、彼自身が被造物だとみなせば、創造主は「神=ヤハウェ」おひとりしかいない。この点もJWの見解に近いが、大天使ミカエルとの同一視には難点がある。とにかく、「神の収縮」などに表わされる創造論、すなわち「無からの創造」に関する形而上学的思弁は停止するなら、私の場合、より聖書的「神観」や「宇宙観」としてはJWの考え方に近づいてくる。
なお、JWは復活したキリストに対して、また終末に復活する聖徒についても「霊の体」ということを言うので、「霊の体」は「神」独自の身体性を意味しないし、下のリンク先の2つの記事(「聖書の見方 神はどんな方か 神はどんな体を持っていますか」、「神を見たことのある人はいますか」)では、「霊の体」は「神」についてひとことも言われていない。ただし「神」についても「霊」とは言え、何らかの身体的な面があることは認められていると言える。
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/102013167
https://www.jw.org/ja/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88/%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E7%A5%9E-%E8%A6%8B%E3%82%8B/#?insight

詩篇33:13〜14(松田訳)「天からヤハウェは眺め、ひとの子らすべてを見た。座する所から目を注いだ、この地に住むすべての者に。」


以下の文言にも条件付きで共感し得る。
<間違った解釈1:"神は霊である"(ヨハ.4:24) 神の霊は彼の力あるいは呼吸と話してその論題を要約出来るし、そして彼の本質の自身、彼の存在と性格がその霊の成し遂げる行動を通して人間に現れています。彼の霊は彼の人格を反映しているから、"神は霊である"と言われた句節は正確に翻訳すべきであります。神は多くのものに描写されています。例えば、"私たちの神は、焼き尽くす火です"(ヘブ.12:29)。"神は光です"(ヨハ1.1:5)。"神は愛です"(ヨハ1.4:8)。"言葉は(Logosの意味は計画、目的)神であった"(ヨハ.1:1)。このように神には彼の特徴を現わしています。聖書で"神は愛である"と読むので、'神の本性'を抽象的に'愛である'と定義するのは明らかに間違っているのです。私たちが誰は親切であると言いますが、しかしそれは彼が身体的存在がないと意味するのではありません。それは親切を現わしている彼の存在のマナーを話しているのです。神の力である彼の霊は、聖書では、神が遣わし、あるいは指示して彼の意志と性格に一致することを成し遂げるものと認識せねばなりません。神はその霊も創造したと話しています(アモ.4:13注釈を見よ)。神が霊であると言うのは神の同義語の反復であって、神の身体的存在を否定しているのではないのです。神が彼の霊を指示している実例はたくさんあって、神と彼の霊が分かれているのを示しています "彼(神)の聖霊を彼のうちにおかれた方は"(イザ63:11)。"この僕に私の霊を授ける"(マタ.12:18)。"天の父は求める者に聖霊を与えてくださる"(ルカ.11:13)。"霊が鳩のように天から降って"(ヨハ.1:32)。"私の霊をすべての人に注ぐ"(使.2:17)。聖書には度々神が"彼の霊"と話してその霊は人格的神でないことをが充分立証しているのです。この神と彼の霊の差違点は父なる神をイエスと聖霊と同等視する'三位一体説'を信じている人たちにはもう一つの難しい問題です。もしこれが事実であり、神が人格的でないものと仮定するなら、イエスは実際の存在でなかった者であり、また今もいない者となるのです。神が人格的存在でないなら、私たちが祈りをあげる時も、'祈りがただ私たちの心に存在する意識と神に関する考えとの対話であると言う意味になるので、重大な問題が起ります。私たち継続的に天に身体的に居られる神に祈っている事を気付かせるべきです(伝.5:2; マタ.6:9; 5:16; 王上.8:30)。そしてイエスはいま神の右におられ、私たちの祈りを神にあげています(ペテ前.3:21; ヘブ.9:24)。もし神が人格的でないなら、このような句節はなんの意味もないのです。しかし一度神が実際私たちを愛している父であると認識することができれば、私たちが信頼している他の人に話すと、彼は私たちの意志に反応し応答するように、私たちの祈りは私たちが触知できる実際的神にあげるのです。>(〜「聖書基本知識」)http://www.biblebasicsonline.com/japanese/01/D01.html

ところで、上に引用した文言には当然、批判されるべき点がある。とりあえず2点だけ挙げておく。
1.「神はその霊も創造したと話しています(アモ.4:13注釈を見よ)。」⇒これは文脈を無視した無理な解釈。この場合の「ルーアハ」は「風」と訳して然りだ。
2.「聖書には度々神が"彼の霊"と話してその霊は人格的神でないことをが充分立証している」⇒そのような記事を文字通り解するのは誤り。「霊=神」ではなく「不可分」と同時に「不可同、不可逆」があり、霊が人格神でないというのは当たり前のことだが、神がご自身の霊と対話するということも誤解である。神の霊は神ご自身の意志の働きであることを示しているのであり、霊そのものが人格的存在という意味ではない。「神(の)霊」は言わば「神」の分身なので、神の人格性が反映されるのは当然なのだ。表現方法として類比とか比喩、特に擬人化があることを重視しなければならない。生ける神は聖書啓示に於いて、人間の受容としてそのような方法を許容しておられることは旧約聖書の特にJ資料に明瞭(http://www8.plala.or.jp/mihonda/Yahwist.htm)であり、新約聖書では特に(「神」ではなく「(対)神関係」の)啓示者であるイエスのたとえ話から推察される。「神」に「身体」性を認めることはモルモン教のように明らかに聖書啓示から逸脱することだが、「神」に何らかの「実体」性があることまで否定するのは行き過ぎ。目には見えないとは言え、イメージも出来ない得体の知れない存在では人格的関係(「我−汝」の「汝」)の対象性を持ち得ない。しかし、このサイトでは「神人同形」的意味でイエス・キリストが神の形体であるとも言われており、この点は全く認めることはできない。物語の中の「イエス・キリスト」と現実の歴史に生きたイエスとを混同したままで、「イエス・キリスト=神の(形)体」ということは言えない。それは有限かつ相対の個体が無限かつ絶対の神を体現するということになるからだ。そのようなことはあり得ない。そのような考えは歴史の軽視と知性の犠性を意味する。「聖書が証しするイエス・キリスト」が独一無比の存在であるのは「神の啓示」においてではなく「神関係の啓示」においてだ。すなわち人が「神」を人生の「目的地」とする時にその「道」としての役割を果たすのだ。イエスは「神=ヤハウェ」と生得的信者個々人との関係をとりもつ「媒介者・仲保者」にすぎない。物語の中でも「イエス・キリスト」は「神」と「同一実体」ではない。先天的に聖霊充満の人(=霊満人)いう点で一般人と違うが、それは彼が神格者であることを意味しない。彼が「神の啓示」において「独一」と言えないのは、「神の啓示」には「一般啓示=自然啓示」もあるし、彼以外にも「神」がその「(形)体」をとった存在があるからである(創世記18章前半、32章後半その他参照)。彼は「神の啓示」において「究極」の存在ではあっても、彼だけが「神の啓示」なのではない。私は「神の使い=天使」という存在が「物語」の中にしか存在しないと思っているが、神が「物語」の中にそのような中間的存在を登場させているのは何故かと言えば、それはこれもまた「神」の対象性を表す役割を担うからだと思う。だから「神」と「神の使い」とが重なるような記事があるのだ(士師記6章前半その他参照)。つまり旧約物語にも、「神」が人間のような姿形をとった存在が登場し、それらが「神」の人格的対象性を示しているのであり、新約物語でキリストが登場することによってはじめて、「神」の人格的対象性が現されたというわけではないということである。だからキリストは「神の啓示」において唯一とか独一とかいうことではない。されど「究極」ではある。それは新約物語の「イエス・キリスト」においてこそ「神」の人格が最も「具体的」に現されたからだ。「子は親を映す鏡」だとか「子を見れば親がわかる」と云うように、「イエス・キリスト」に「父なる神」の人格が映し出されているのだ。
とにかく私は、上記のようなモルモン教系の人体主義的偶像神観と、京大学派系の神秘主義哲学的神観の両極端を排する。この両者の観方に共通しているのは「神」と「人間」との区別がついていないことだ。端的に言えば両者とも「人体神」思想。前者は元は「人」であった「神」を説き、後者は「人」が主体として生き得る「神」を説くから(特に西谷啓治氏の『神と絶対無』における「生きられうるのみであるような無」という考えは甚だしい)。ちなみに後者から普及した「絶対無」を念頭に置いてのことだと思われるが、関根正雄氏は以下のように述べている。
<我々日本人の場合には仏教の偉大な先達をもっていることは大きなことで、仏教的な「無」はきわめて深い霊的なものを含んでいると思う。しかしあまりに「無」を強調すると、聖書の神が内在化されすぎて、ルターのいう「外なる義」「他なる義」、総じて、「我々の外に」(extra nos)という救いの確かさの最後の根拠が見失われることになりかねない。>(『古代イスラエルの思想』〔講談社学術文庫〕p134)
これは「見神」について述べられた文脈の中での言葉であり、並木浩一氏の「旧約では神に見られることによって神を見ることができた、あるいは神に知られることによって神を知ったのだ」という言葉を共感をもって引用しておられる。モーセの見神についての明瞭な記事は民数記12:8のヤハウェの言葉「彼はヤハヴェの姿を見る。」だが、並木氏の「視覚の精神化(スピリチュアリゼーション)」説の他、ブーバーの説を引いて「霊的にモーセこそ神との交わりを最も深く知った人だと解したい」と言う(同書p132)。
話を戻して、上記のモルモン教系と京大学派系の「人体」神観に対する私の立場は「人格(を比喩とする神格)」神観。すなわち、創造主として人類をはじめとする全ての被造物を超越しつつも統治する、そのような「人格神」を信仰する立場だ。結局、中庸の立場が賢明なのだ。これは聖書的神観ではあっても伝統的キリスト教の神観と同じではない。キリスト教は教会組織で決めた公式の聖書解釈すなわち教義の神観を絶対化し、これとは少しでも違う観方に対して「異端」などのレッテルを貼るからだ。私の神観は私自身の「(対)神関係」に於いて感得され表出されたものである。聖書が啓示する「創造主なる神=ヤハウェ=イエスの父」は視覚的対象のように客体では無いが、さりとていかなる意味でも実体が無いわけではなく、共同の場に於いては聖書を主たる媒体として比喩的に認識され、特に個別には具体性のある人格的関係の対象として信知・感得される存在。

「もしキリスト教が本物ならば、神との人格的交わりこそ、神が第一にわたしたちに望み課するものとして示すであろう。」(〜神学者フォーサイスの言葉)http://akitanarayama.blog10.fc2.com/blog-entry-1236.html

繰り返すようだが、肝要なるは、現実に自分自身が置かれている「(対)神関係」の自覚である。人間に内在するといわれる「神」は、「神」御自身というより「父の霊」(マタイ10:20)と解することもできる。前述のとおり「父(なる神)」と「父の霊」とは「不可分」ですが「不可同・不可逆」なのだ。「神は霊なり」(ヨハネ4:24)という言葉は、神を物体などのように対象化する(=偶像化する)ことの誤りを戒める主旨であり、「神」本体とその「霊」とを混同して示しているのではない。それを単純に直解すると対象性そのものを否定する言葉とみなされてしまう。
旧約聖書では、「ヤハウェ自身が霊であるとは、どこにもいわれない。なぜなら旧約聖書は、神の本質について、世界ないし人間との関係においてのみ語るからである。ヤハウェは霊を与え、またそれを取り去り(詩104:29-30)、かくして被造物の生と死とに働きかける。(中略)かくして霊とは、旧約聖書の基本的観念によれば、人間と動物にとって、神から恵みを与えられる生命の担い手である。」(『旧約新約聖書大事典』〔教文館〕p1291)
新約聖書では、「否定的にも肯定的にも、パウロ主義とヨハネ主義は霊の精神主義的解釈に傾く。すなわち、神は霊であり、主は霊であり、その中に神がいるとされるものである(ヨハ4:24、Uコリ3:17、5:19)。」(同書p1293)※「5:19」は誤記と思われる。
「神は愛なり」(Tヨハネ4:8,16)も「神は霊なり」(ヨハネ4:24)も共に象徴的表現であって単純に「SVC」の文型で解すべきではない。前者は「神は愛(の源)なり」、後者は「神は霊(の源)なり」と解して然り。
ちなみに関根正雄氏は前掲の『古代イスラエルの思想』の中で次のように述べている。
<新約において聖霊とはキリストの現在である。これは決していわゆる神秘的なことをいっているのではない。何よりもリアルな意味で神は、キリストは、霊なのである。神は霊だということが旧約でも終始問題なのだが、従来、聖書の思想を問題にする場合にはどうしても言葉に片寄ってしまい、思想は生きたものにならない。だから、私はあえて、霊的な生命ということを言いたいのである。しかしまた聖書の「霊」ほど誤解され易いものはない。>(p106)
このように関根氏は「神=霊」を認めておられるが、その「霊的生命」への関心が彼を「原始福音・幕屋」にコミットさせたのではなかったのか。考えすぎるとろくなことはないのだ。

「ヤハウェの霊」と言う場合、「人格」としての面での「神」が、「霊」としての面での御自身を預言者などに注ぐということになるのか、と言えばそうではない。なぜならヤハウェは聖霊だけではなく悪霊をも送るからだ(サムエル記上16:14以下参照)。「神の霊」は「神」と「不可分」ではあるが「不可同・不可逆」だ。また、「神=創造主=ヤハウェ」の人化などは、いかに聖書に書かれてあっても無批判に文字通り受け入れることは出来ない。たとえば、アブラハムの前に現れた3人の男の1人(創世記18:10,13参照)や、ヤコブの格闘相手の「ある男」(創世記32:25)が「神=ヤハウェ」であるとは解し得ない。「神=ヤハウェ」が絶対者であり全能であるなら、彼は人になることも可能だろう。その意味でイエスも神が人(=正しくは「(真に)神(真に)人」⇒「神人」)になった存在であるとマジに言うことも出来るだろう。しかし私は信仰の決め手がリアリティーであると自覚するので「歴史」と「神話」の区別はつけたい。キリスト教が天皇に対する「現人神」説を否定し、今でも出雲大社の宮司を「現人神」などと言うようなことを迷信だと批判するなら、自分たちもイエスを「現人神」の如くにみなすべきではない。他宗教の「神の人化」は認めず、イエスのみを「神人」だと主張するのは独断かつ独善的だ。聖書の中にイエスを「神」とみなす記事があることは認め得るが、その「神」は「創造主=ヤハウェ」についていわれる「神」とは区別されて然り。「創造主=ヤハウェ」について言われる「神」は「唯一」(エハド)だからだ。その意味をめぐる議論については当ブログの<「エハード」と「三位一体」に関する詭弁>および<エハード(申命記6:4)の歴史的背景>参照。

「人格神」については上記で並木氏の説を見たが、大貫隆他編『一神教とは何か 公共哲学からの問い』(東大出版会)の中では、八木誠一氏の著書を一冊も読んでいないという加藤信朗(東京都立大学名誉教授.ギリシア哲学・教父哲学)という人が、「人格神」という言葉は全然分からない言葉で、Personal Godというのは、日本人にはどうしても「Personified(人格化された)、つまり人みたいなものだと」受け取られてしまうと述べている。そして最近までイグナチオ教会の正面に「キリスト教の神は人格神である」と堂々と書いてあったが自分には全然分からないという感じがしたのだと語っている(p25)。これに対して八木氏は、「人格というのはコミュニカント(communicant)」だと述べ、アウグスティヌスが『告白録』の最初で「主よ、あなたは偉大であり、いとも讃美すべき方であられます」という呼びかけが「人格神」への呼びかけであると言う。加藤氏はこれを「違います(笑)。」と否定するが八木氏はすかさず切り返し、<いやいや、私どもが神を人格神という場合、「人格」という言葉にとらわれないでください。人格という言葉から神を理解するのではなく、逆にアウグスティヌスが Magnus es,domine,et laudabilis と神に人間の言葉で語りかけている。そういう語りかけができる。このような仕方で語りかけられる相手を人格的というのだと、逆のほうから考えていただきたいと思います。>と述べている(p26〜27)。

「神とは肉体を持たない「霊的実体」」である・・・それでよいとは思うが、「霊的」であって「霊」そのものでもないことに注意すべき。「霊」という言葉は原語的にも訳語的にも「風」のような捉えどころのない、あまりに漠然とした感じを与えるからだ。物体とは根本的に異なるという意味で「霊的」とは言われても、いかなる意味に於いても「体」が無いとは言えない。もしそうなら人は神(=創造主ヤハウェ)を関係相手とし得ず信仰できない。信仰は意識を媒介する以上、対象への志向性がある。
「体験における神も、反省においては思惟の対象となり、観念とされ、概念として言葉の表現へと移される。」(〜松村克己氏の論文「哲学者の神」)

(以下は蛇足)
私はけっして日ユ同祖論などには関心はないが一部分ちょっと面白いと感じた事はある。それは「八咫鏡」の裏面に書かれているというヘブライ文字についてだ。私はそのこと自体、信じてはいないが、ファンタジーとしてなら従来の出エジプト記3章14節の「エフイェ アシェル エフイェ」説より、また久保有政氏の「オール ヤハウェ」説より、下のサイトの、<Possibleオリジナルの,文字の解説- 「光」よりも,むしろ,「からだ」を意味するヘブライ語ではないだろうか? ->の、「ウール ヤハウェ」(=「力あるヤハウェ」、「ヤハウェの体」)説の方が面白いと思う。無論、日本神話の「神体」と、ヘブライ伝承の「神体」とは、同じ「神体」と言い表わすことはできても全く次元を異にするが、どうせフィクションなのだから大胆に思い描く方がいい。http://godpresencewithin.web.fc2.com/pages/zatsugaku/yatanokagami.html 


🔵「神の名」について・・・批判的引用。
<古代オリエントのどの宗教においても神の力は、神の名の啓示をもってなされます。そして神の名の啓示は、その力の資質の開示を意味するのです。神についての、そして世界と人類と共にある神の在り方についての問いに対する、第一の、そして最もはっきりした答えは、神の名にあるのです。ところで、聖書の神の名の開示の特質は自然ではなく、歴史との関与にあると言われます。しかも歴史との関与は、本来制御なき力を持つ神の自己制限の行為であると。
天よりも高き神がご自分の名を人間に啓示するとは、神が低きに下る自己放棄であり、それは神の無比な全人格的愛なのです。神がご自分の名を告げるこの愛のわざによって初めて、人間の神との交わりが実現するのです。然り、13年に及ぶ沈黙を破り、神がアブラハムにご自分の名を啓示されたのは、神の無比な全人格的愛のわざなのです。この愛のわざによって再び神とアブラハムの交わりが実現するのです。
ところで、神がアブラハムに啓示した名、神の性質と意志は、「わたしは全能の神である」です。学者たちは、この「全能の神」と訳された神の名「エル・シャッダイ」の意味は、まだはっきりとは解明されていないと言います。
「エル・シャッダイ」というこの神の名を祭司記者はある意図をもって使っています。それを端的に伝えているのは、エジプトで苦しむイスラエルの民を救い出すために、神がモーセにご自分の名を啓示された場面です。「わたしは主(=ヤハウェ)である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(=エル・シャッダイ)として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった」(出6:2−3)。
祭司記者は、イスラエルをエジプトの苦しみから導き出すために啓示された神の名と、族長たちを導いた神の名は違うというのです。先ほどわたしは、神の名の啓示はその力の資質の開示を意味すると言いました。イスラエルをエジプトの苦しみから導き出した神の名「主(ヤハウェ)」は、「わたしは必ずあなたと共にいる」(3:13)という意味です。では、「エル・シャッダイ」という神の名にはどのような神の力の資質が開示されているのでしょうか。先ほど触れましたように、この神の名の意味はまだはっきりと解明されていません。「全能の神」という訳は、七十人訳聖書がそのように訳したことから来ています。「エル・シャッダイ」という神名にはどのような意味があるのでしょうか。
神が「エル・シャッダイ」の名を族長たちに啓示される場面には、ある共通した表現があります。それを端的に伝えているのが、神がヤコブにご自身をエル・シャッダイとして啓示されたときです。「わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり、あなたの腰から王たちが出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地を、あなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える」(35:11、12)。
ここにもアブラハムに語られた「産めよ、増えよ」があります。これは、祭司記者が創世記1章で、神が人間をご自分にかたどって創造した時に祝福して言われた言葉です。この「産めよ、増えよ」とは捕囚期の歴史家祭司記者の主要テーマであると言った人がいます。祭司記者は、あるいは命令文で、あるいは平叙文で、ノアに、アブラハムに、イサクに、ヤコブに、そしてイスラエルに「産めよ、増えよ」と繰り返したのです。つまり、世界も神の民もこの祝福の言葉との関連で見ているのです。
いったい、祭司記者は「産めよ、増えよ」との祝福の言葉で何を語ったのでしょうか。実は、この祝福の言葉は、祭司記者と同時代の預言者エレミヤ(3:16、23:3)とエゼキエル(36:11)にも使われています。そこには共通の特徴があります。第一に、ともに捕囚期という崩壊・滅亡・破局の時代に語られているということ、第二に、ともに捕囚からの回復を告げているということです。祭司記者の「産めよ、増えよ」も、捕囚期という崩壊の時代に、世界とイスラエルに向かって語られた〈回復〉の言葉であると見て良いのではないでしょうか。
「エル・シャッダイ」としてご自分の名を啓示した神は、その本来の顕現形式において歴史における一つの破局的な出来事を通して契約社会の秩序ある生活を創造するという、力ある支配者なる神として自らを啓示しておられるのである。崩壊の時代に、世界とイスラエルに向かって語られた〈回復〉の言葉であると見て良いのではないでしょうか。この時、アブラハムの体は完全に死んでいたのです。何も望み得なかったのです。そのアブラハムから、神は生命を生み出さるのです。死人を生かし、無から有を呼び出されるのです。この神が「エル・シャッダイ(全能の神)」なのです。
エル・シャッダイ、学者たちは、この神の名の意味は、まだはっきりとは解明されていないと言います。この神の名の意味を解明したのは、ガリラヤの漁師ペトロでした。ペトロはエル・シャッダイとい神の名の意味は、ナザレのイエスであるとしたのです。ペトロは、ナザレのイエスの名において、神の無比な全人格的愛が啓示されたと語ったのです。ペトロは、「ナザレの人イエス・キリストの名によって」生まれつき足の不自由な乞食を立ち上がらせ、歩かせたのです。ペトロは言います。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめているのですか。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。……あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです!」
福音書記者は、このイエスの名によって、「盲人の目は開き、足の不自由な人は歩き、らい病人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死人は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされる」と語ります。イエスの名において神の無比な全人格的愛が受肉したのです。
イエスの名に啓示された神の無比な全人格的愛の受肉、新しい時の到来を主イエスは次のように言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる!」>(〜「ホスティア」)http://akitanarayama.blog10.fc2.com/blog-entry-1196.html

「この神の名の意味を解明したのは、ガリラヤの漁師ペトロでした。」以下は批判的に読まなければならない。これは川島牧師の解釈であって、実際にペトロが「エル・シャッダイとい神の名の意味は、ナザレのイエスであるとした」などと断定することは出来ないからだ。説教では、主観(解釈)と客観(事実)とを混同してはならない。
新約聖書ないしはキリスト教においては、神の名が知らされただけで「神」の得体が知られたとは言えない。そもそも旧約聖書で「神」の得体はすでに知られている。キリスト教の教理では伝統的に「神が人となった」すなわち「神が受肉」したと信じられ、イエス・キリストが神の特別啓示だといわれる。だが私は小田切信男氏と同じく、「人が神になる」ことも、逆に「神が人になる」ことも、両方とも聖書的には誤りであると信じる。「受肉」したのは「神の子=ロゴス」であって「神」ご自身ではないのだ。
マタイのイザヤ7:14(70人訳)解釈ではイエス・キリストは「インマヌエル」と呼ばれるのであり、それがマタイによる福音書最後のイエスのメッセージ「あなたたちと共にいる」(28:20)によって示されているが、「イエス」という名があるのに何故、「インマヌエル」と呼ばれるのか?その意味は何か?と言えば、自分の解釈ではこうである。このテキストは「対神関係」における「対象喪失」、すなわち「神の対象性」を見失っているアハズ王の精神状態を示すものであり、そのメッセージの前提には、イザヤ7:14の背景がある。それはシリア(アラム)とエフライム(北イスラエル)が反・アッシリアの軍事同盟を結び、ユダに対して参加するよう求めたがユダが拒否したことによりシリア・エフライム同盟がエルサレムを包囲したという時代状況である。この状況下、ユダの王であるアハズは同盟に対する不安の中で「神」との関係を軽んじ、「神」に信頼せずにアッシリアの王に助けを求めた。「神」の存在感が確かなら、そういうことはしないはずである。国家の危機的状況のリアリティーの方が、「対神関係」のリアリティーを上回ってしまっている。そんなアハズ王の心理を見抜いていたイザヤは、「神(=ヤハウェ)」の霊感を受けて「若い女が男の子を生む、その子の名を「インマヌエル」と名づけるだろう」と言った。これは「神」という対象性を喪失しているアハズ王に、その対象性を示すために語ったものであり、身体性を持つ「男の子」が「神」の実体、実在を示すということである。それが彼に「神、我らと共に」を意味する名が与えられたことの理由である。だから「神(=ヤハウェ)」から与えられた「徴(しるし)」の意味は、表面的にはシリアとエフライムの二人の王からの解放であるが、それだけにとどまらず深層では、「対神関係」における「対象回復」ということがあると思う。「神、我らと共に」というのは今さら耳にする言葉ではなく、実に族長時代からイスラエルの歴史は「インマヌエル」であり(創世記28:25他)、民たちはそのことを伝え聞いていたはずである。ところがその信頼関係が国際情勢の中で揺らいでしまった。それはユダの国家的・民族的危機であると同時にヤハウェ信仰の危機でもあった。まず何よりも後者を乗り越えるためには、あらためて「神(=ヤハウェ)」が「共におられる」ということを集団的レベルにおいても個人的レベルにおいても実感しなければならない。つまり「対神関係」における「神の対象性」が回復されなければならない。その「神」の「対象=的=体」として、「インマヌエル」と名づけられた「男の子」が指し示されているのだ。だから私はこのイザヤ7章のテキストを、註解書にとらわれて「インマヌエル」はシリアとエフライムの二国の王からの解放の「徴」であるなどと読み取るよりも、その預言内容はともかくとして、「神」への信頼を失うような状況下に置かれる人間に対するメッセージとして理解する。すなわち、限界状況にある時にこそ動揺せずに「神」との関係に立ち返ること、「神、我らと共に」という「対神関係」の原事実に立ち返るべきことを告げる「徴」であると受け取る。それが「対神関係」における「対象喪失」を克服する道なのだ。そしてこれを踏まえるなら、「イエス・キリスト」が「インマヌエル」とも呼ばれるという意味は、誰でもアハズのように「神」への信頼を失いそうになる時は「神」の対象性、存在感を感じられなくなっているということなのだから、そのために「神の体(たい)を現す名」として「(ヘ)イェホシュア=(ギ)イエスース=(和)イエス」を見よという意味に解せる。それは「ヤハウェは救い」という意味だからであり、より正確に言えば、「神の体を現す名」が「ヤハウェ」だから、「イェホシュア=イエス」はその名を現す名ということになる。従ってイエス自身が「神の体」なのではなく、その「神の体」を指し示す「体」、「御神体を示す体」でもあるということになる。それは史的イエスの肉体ではなく、あくまでも「神の物語」の中での「聖体」である。ただし、両者は非連続の連続であり無関係ではない。だからこそ「歴史」のリアリティーを持ち得るのだ。しかし、なぜ「ヤハウェ」という「名」だけではダメなのだろう。要は「神の体(=神の対象性)」を回復するということであれば、「ヤハウェ」という「名」だけでよいはずである。しかし新約聖書は「イエス・キリストの名」にこだわる。それは「ヤハウェの救い」の現実性を知るには、天下にこの名しか無いということである(使徒4:12)。しかし実はそれだけではない。救いの主体はあくまでも「ヤハウェ」であり、イエスはその客体的主体である。この秩序は軽視できない(Tコリ15:28を見よ)。「イエス(・キリスト)の名」は、「神(=ヤハウェ)」の救いの普遍的な歴史性と現実性とを補うものである。それによって異邦人である我々日本人も救いが実感できる。「YHWH」だけでは、イスラエル史という特殊な歴史性しか伴い得ないからだ。これが我々にとっての歴史的現実性へと及んでくるために、民族主義を超えて万人の罪の贖いのために死なれた「イエス・キリスト」の名を通して、「ヤハウェ」という名によって体(たい)を現し給う「神」を信仰するのだ、・・・と言うのは新約聖書も棄て難いからであって、「贖罪」ならキリストが出てこずとも旧約内でヤハウェ御自身が成しておられるから(イザヤ44:22他)、実は聖書の救済神教は旧約聖書だけで完結している。しかしそれを言ってしまったら、いちおうキリスト教界内で生きてきた自分の歩みがその必然性を失い、聖書宗教への縁というだけならユダヤ教改革派でもよくなってしまうので、キリスト教の中に留まるために、あえて新約聖書の必要性も受け入れるべく、新約聖書のキリスト物語に、「神」啓示の直接面(キリストが自身により、実体論的に「神」を現わしていること)と間接面(キリストが「子」として、関係論的に「父=神」を現わしていること)の両面を認める。
西行の作と云われる「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」とは自分の場合はあり得ない。自分にとって「神=創造主」の主たる在り方は現世を超えて(「在天」)確固たるものでなければ「神関係」の実感に合わない。「神」はあくまでも実体的でなければならず、プロセス神学者のシューバート・オグデンが言う「創造的生成」といったような神観では「得体」は知れないのだ。「超越」と「内在」は常に同時的に考えられるべきで、「神」が世界に「内在」しているからといってもそれは、「我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている」(関根正雄著『古代イスラエルの思想』〔講談社学術文庫〕p87 ※「越え」ではなく「超え」とすべきだろう)のであり、「内在」と同時に「超越」しているわけだから(言わば「超越的内在」)、汎神論的ないしは多神教的な感覚を排除することが出来る。つまり日本の自然宗教のように「神」の私物化といったことにはならないのだ。その点は担保される。


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