聖書の御神体

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zoom RSS 聖書が啓示する「神」は、ストーリーテラーである。

  作成日時 : 2013/12/31 23:52   >>

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「現実の歴史を軽視しないキリスト教」、「知性も神の賜物として尊重して教義の犠牲にしないキリスト教」・・・そういうキリスト教であるためには、「聖書(=神の物語)」における「歴史=救済史」と、「現実」の「歴史=実証史」とが厳格に区別されなければなりません。言わば、「His Story」と「History」との区別です。実在する「神」はこの両方の「歴史」を支配しておられます。両者は区別はできても分離はできません。言わば「二重性の現実」であり、滝沢神学の言い方で表わすなら「不可分・不可同・不可逆」です。両者に上下優劣はありませんが、やはりキリスト者である以上、聖書の救済史が実証的歴史に対して上であり不可逆ということになります。さらに言えば、聖書そのものが「His Story=神の物語=救済史」だけではなく「History=一般的に言うところの「現実」=実証史」との二重性によって構成されているとみることもできるので、言わば「入れ子構造」になっています。
「神」と我々との間には「聖書」というものがあります。「神」は歴史にご自分を啓示なさるために、この「聖書」というものを媒体としておられます。「神」は昔からいろんな人を選び立て、聖書の素材となっている伝承を語らせ(ヘブル書1:1)、編集させて、聖書を作られました。聖書を正典として集め、歴史的に担っているのは教会ですが、これも「神」が立てられたと言えます。しかし「教会」あって「聖書」ありではないのです。たしかに最終的な形としての「聖書」は教会が編集して成立させていますが、その元の伝承によって書かれた諸文書は教会成立以前のものだからです。「聖書」と「教会」との関係は前者が優先されます。
「聖書」は言わば「神の物語」です。その「物語」の中でこそ「イエス・キリスト」は実在するのです。我々は聖書の物語における歴史(=His Story=救済史)において彼と出会うのであって、現実の歴史(=History)ではたとえ新約の時代にタイムスリップしたところで彼に出会うことはできないでしょう。ただし、彼の元になる人物に会うことはできるかも知れません。その元の人物、史的イエスなしには聖書で物語られている「イエス」もあり得ないからです。聖書が証しする「イエス・キリスト」が、その元の人物も実在しない全く架空の人物であるなら、「神」の救いは歴史とは関係ないものとなり非現実的な事柄ということになりますが、そうでないことは旧約聖書を読めばわかることです。これはもちろんフィクションの面も多々ありますが、形としては古代イスラエルの歴史をベースに語られてるからです。だから「救済史」も現実の「歴史」と非連続の連続という関係があります。「神」は歴史においては沈黙されても、物語においてはキリストを通して(ヘブル1:2)、ひいては聖書全体を通して雄弁に語っておられます。
創世記18章でアブラハムの前に現れた三人の客は一人が「主(=ヤハウェ)」で、あとの二人は「主の使い」であると解されます。そもそも「主の使い」自体が「サタン」と同様に非現実的な存在なので、こういう話こそまさに聖書の中の物語にすぎないわけですが、「神」はあえてご自身が人間の一人に化身する話を物語っておられます。その意図はよくわかりませんが、これも一つには「神」が「形体」を取り得る人格的存在であることを示すと言えます。究極的には新約聖書、特にヨハネ福音書における「イエス・キリスト」が「神」の対象性を現すのですが、旧約聖書の中にもこのように「神」の対象性を示す箇所があるにはあるということです(その他、「主の使い」と区別が明瞭ではありませんが、創世記32章でヤコブと格闘した男や、士師記6章でギデオンを訪れた者についても言えると思います)。「神」は旧約聖書では得体が知れなかったが、新約聖書のキリスト誕生によってはじめて得体が知れるようになった、というわけではないのです。
このように、「神」はある意味、ストーリーテラーと言えます。豊かな物語を通して、いろんなかたちでご自身を啓示しておられるからです。その中心が「イエス・キリストの身体(からだ)」ということになります。ここが聖書の「的」なのです。ここを中心に読み解かなければなりません。「神」はご自身を「イエス・キリスト」と同定して物語っておられるのではなく、「神の子」としてであり、その親子関係において(「子は親を映す鏡」といった仕方で)ご自身の対象性を示しておられるわけです。ご自身をそのまま対象化して描くということをされていないのは(部分的にはそんな記事もありますが)、それが偶像化につながるからです。人間と人格的な活きた関係を保つため、ご自身は物語の中に見える存在として現れないのです。旧約聖書では御使い又は御使いとの区別が判然としない人物への「化身」として「体」を現しておられますが、新約に入って御子ロゴスの「受肉」という物語を通して、「イエス・キリスト」において「体」を現されたのです。しかしそれはキリストが神と実体として同一であることを意味しません。ただ我々が「神」を認識しようとする場合、その「的」になるものは「キリスト(の体)」以外には無いということです。それがトマスやフィリポとの問答の主旨です(ヨハネ14:5〜11)。それはご自身とキリストとの相互内在的な深い関係を示しており、ご自身がキリストと「不可分・不可同・不可逆」であることを教えています。しかし「物語」に対する解釈は多様であって然りです。教会の「三位一体」という教義も、「神の物語」としての聖書解釈としては認められます。私はこの解釈を採らないというだけで、これを否定するのではなく相対化するのです。「三位一体」はまさに「物語」における解釈らしく、その定式自体が比喩にすぎません。「神」ご自身の現実態を示すものではないのです。
新約物語における「イエス・キリスト」を信じるということは、「神」がキリストのような人格であることを信じるということもありますが、何よりも「神」が実在することを信じることを意味します。それは救済史の中だけではなく、現実の歴史においても言えるのです。なぜなら「宣教のキリスト」は「史的イエス」と無関係にはあり得ないからです。キリストの出来事は救済史ではそのまま事実ですが、現実の歴史には、その象徴的意味が事実となります。この関係が重要です。つまり「受肉」とか「贖罪死」とか「復活」は救済史の事実ではあっても現実の歴史の事実ではありません。しかし両者が全く関係ないかと言えばそうではなく、前者が象徴的に示す意味が後者では人生を豊かにしたりするわけです。それが信仰です。
よく、歴史上にキリスト教会が誕生し得た背景にはイエスの「復活顕現」が史実としてあるからだとの主張がありますが、必ずしもそうとは言い切れません。神のなさることですから、、それこそ合理的説明ですべて片付くわけではないのです。イエスを裏切り逃げていた弟子たちが何故、死を恐れず宣教するようになったのか、などといった疑問は私にとっては重要ではありません。仮に「復活顕現」というような現象があったとしたら、私はそういったことも「集団幻視」などで説明が付くと思います(日本ではこの方面の研究は佐藤研氏が先端的)。少なくとも「500人以上」(Tコリ15:6)は誇張にほかなりません。でも繰り返しますが、そういう現象があったかなかったかなどは二次的な事柄でどうでもいいのです。教会成立の歴史的理由などはいろんなことが言えるでしょう。「聖霊降臨」などという現象も史実ではなく、その記事が何を意味しているかが重要なのです。つまり「神」の霊の大いなる働きが弟子たちを信仰共同体の形成へと向かわしめたのであり、その弟子たちを用いて新しい物語が語られることとなったのです。使徒パウロも含めて弟子たち自身、新約聖書の登場人物であり、神の物語の中の存在、救済史を生きる者たちであると同時に、現実の歴史を生きた人々です。彼らも救済史の中では、「イエス・キリスト」ほどではありませんが奇跡的な行為をしています。だから「史的イエス」が不明であるように「史的ペテロ」や「史的パウロ」についても不明な点が多いのです。ただ、「聖書に証しされたキリスト」と「史的イエス」との関係のように、「聖書に証しされた弟子たち」もそれぞれ歴史上に元となる人物が実在したということです。
彼らが復活顕現を体験したからこそキリスト教が生まれたのだ、という考えは私にはありません。歴史的には「神」の霊の大いなる働きがあればそうした奇跡的現象などは不要です。そんな出来事が起こらなくても教会は誕生したのです。教会の役割は、聖書の中の救済史を現実の歴史として語ることではなく、その区別を踏まえて前者から後者に表される象徴的意味としての「福音」を告知することです。教会という組織自体は現実の歴史に存在するわけですが、その宣教内容は救済史に属しています。つまりキリスト教会は、聖書の中の歴史と、聖書を包む現実の歴史との二重性において存在しているわけです。従って、「三位一体」などの教義は前者における出来事の理解であって、後者における出来事とは関係なく意味をなしません。だから、教会はこの区別を踏まえていなければならないのです。しかし神学は両者を混同する傾向があります。現実の歴史が「神」の三位一体論的展開によっているとモルトマンなどの組織神学者は考えているようです。それではどうしてもキリスト教という宗教を相対化しきれず、教会中心の世界観から脱却できません。包括主義的になるわけです。
「神」の新約物語における「宣教のキリスト」も、歴史的現実における「史的イエス」と共通して「神(と同一実体)」ではありません。存在論偏重では「神秘」とか「秘義」とか「奥義」とかいった用語を持ち出して思考停止させる護教論に陥り、歴史性を犠牲にすることになり、知性をも犠牲にすることになるので(〜ブルトマンの「非神話化論」)、キリスト教は現代の多くの知的な人にとってリアリティーを欠いた神話的宗教となってしまうのです。その問題に対応し得ているキリスト教思想家としては日本では八木誠一氏が有名ですが、八木氏の「場所論的」神学は現場の信徒にとって難解で、具体性を欠く面が大きいので、私はもっと教会現場に実用的な考え方が必要だとの思いから、やはり「認識論的」解釈しかないという結論に至りました。ちなみに野呂芳男氏の「実存論的」神学は参考にはなりますが批評の度が過ぎて実用とはかけ離れており、ベースは存在論的思考なので伝統的キリスト教と大差なく、八木氏の思想のような抜本的な捉え直しにはなっていません。そこが同じ神学者といっても聖書学のバックグラウンドのある八木氏と、そうでない野呂氏との格の違いと言えるでしょう。
イエス・キリストは聖書の物語の中で、存在論的には父なる神と同じ「本質(⇒アリストテレスにおいて「ウーシア」は「実体(スブスタンティア)」と「本質(エッセンティア)」との両義を含んでいた)」を持つにしても従属する者であることを、以下のとおり八木誠一氏が解説しています。なお、これは氏が宗教哲学に深入りする前の聖書学者としての発言なので場所論的ではなく、わかりやすいです。
<キリストは究極的ではあるけれども、なお最終の究極者そのものではない。それは存在者が「どのように」あるかの根拠であって、存在者が「ある」ことそのことの根源ではない。そして存在者の「存在」の根源、すなわちあらゆる有の創造者は神なのである。だから新約聖書ではキリストだけではなく、神が語られ、神が創造者なのである。>(八木誠一著『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕135頁)
<存在するものの「存在」の根源、つまり有の創造者は神なのである。そして存在するものが「どのようにあるか」はロゴスによって定められる。だから、「すべてのものは、(神によって)、ロゴスを通じて、成った」といわれる(ヨハネ一・三)のである。(中略)神の言は神から出たものとして「神の子」であり(ローマ一・四、ガラテア二・二〇、ヨハネ三・三五以下)、神の言との出会いは神との出会いであるゆえに、「神の子」は「神」なのである(ヨハネ二〇・二八、ヨハネ一・一参照)。神の言が神と無差別に同一だというのではない。存在は「このように」あるべきだという定めは、存在が「ある」ということの根源(創造神)の意志であり言であることによって、それ自身究極者でありつつ、存在に対して神をあらわす。>(同上、138〜139頁)
キリストは存在者と相関的であり、存在が「どのように」あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的いなるものではあるが、なお最終の究極者ではない。存在者が「ある」ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである(そしてこのようなものとして、まさにキリストの中に神があり、キリストとの出会いは神との出会いであり、かくてキリストは神なのだが)ゆえに神はまずキリストの父であり(ヨハネ一四・六〜七、ローマ一・三〜四)―――また旧約以来そうであるが、新約でも―――世界の創造者なのである(マタイ三・九、マルコ一三・一九)。キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Tコリント三・七、Uペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九〜一一章)。それは同時にこの世に形をとる統合の、究極の根源であり、この意味で秩序の神である(Tコリント一四・三三、旧約では律法は神の戒めである)。それだけではなく、この世に支配する悪霊諸力を打ち滅ぼし、存在を本来のあり方において成就する究極者として、終末をもたらし神の国を成就させる終末の神である(マルコ一三・三一、Tコリント一五・二四以下、Uペテロ三・一一)。キリストが「統合への規定」であるゆえに、反キリストは、統合を破壊し、その成就を妨害するもの、すなわち悪霊・罪の諸力と死なのである。これらは存在のロゴスに敵対する反ロゴスであるが、神はキリストを通じてこれらを滅ぼす。ロゴスと反ロゴスの対立の彼岸にある、究極の終末論的勝利者がキリストの父なる神なのである(Tコリント一五・二六〜二七)。こうして神は、「すべてにおいてすべてとなる」(Tコリント一五・二八)。それはもともと神がすべてのすべてであるからにほかならない(ローマ一一・三六)。すなわち神は永遠であり(ヨハネ黙示録一一・一七)、全能であり(マタイ一九・二六、ヨハネ黙示録一一・一七)、全智であり(マルコ一三・三二)、遍在する(マタイ五・四五以下)。これは神が究極の無制約者であることを示す。この神がキリストにおいて我々の父(ローマ一・七)であり、救世主(Tテモテ一・一、テトス一・三)とも呼ばれるのである。>(同上、148頁)
私は八木神学に多くを学ぶ者ではあるが、神の「遍在」がマタイ5:45以下に示されているという指摘は全く理解できない。むしろここでは父なる神が「天」におられることを示しているのである。そもそも私は、神の「遍在」ということ自体を聖書に読み取ることはできない。
また、新約聖書学者の青野太潮氏も、パウロ神学に於いては、やはりキリストが「神」に従属した存在として位置付けられている旨を示しておられます。
<われわれはいったい何をそんなに恐れているのだろうか。いったい何にそんなにおびえているのだろうか。使徒信条の内容は決して新約聖書の使信を正確に伝えているわけではないと言うことが、それほどに恐ろしいことなのか。三位一体の神というとらえ方の萌芽は新約聖書の中にあるにはあるが、その後の教会史において確立されたような理解は新約聖書の中にはまだないと言うことが、それほど忌避すべきことなのか。とくにパウロにおいて、キリストは神に従属するという神中心主義が強固に横たわっていると言うことが、それほどに不信仰なことなのか。ここでわれわれはもう一度、しっかりと確認しておきたい。すなわち、われわれが神の前で義とされるのは、決してわれわれが神の意志を正確にとらえ、そして正確に信じているからではないのだ、ということを。どれほど真摯で、どれほど敬虔な信仰に基づいた探求であろうとも、神をあるがままの姿でとらえることはできないし、われわれがキリストと告白するあのナザレのイエスの地上の生を、歴史的に誤りなくとらえることもできない。われわれが神の前で義とされるのは、ただただ、何らの業をも為すことのないままで、まさに「不信心な者を義とする神」を受容するという意味における信仰によってのみなのである(ローマ四・一―八)。>(青野太潮著『「十字架の神学」の展開』〔新教出版社〕5頁)
<こうした箇所にふれるとき、われわれはただただ正統主義的な「キリスト論的集中」といったような捉え方の中に止どまり続けていてよいのだろうか。三一論をアプリオリーに前提して、以上のような「神中心主義」をただユニテリアン的だと一蹴してしまいつつ、無造作にイエス・キリスト=神としてしまってよいのだろうか。むしろこのような「神中心主義」の中でこそ、あのナザレのイエスをキリストと告白することの真の意味が明らかになるのではないのだろうか。われわれは今そのように深く問われているのだと私は思う。>(同上、61頁) ※「こうした箇所」とはその前に列挙されている聖句であり、Tコリ15章以外ではTコリ3:22〜23、11:3、Uコリ5:18、ガラテア1:4、ローマ1:25、8:26〜27、9:4〜5、15:7で、同主旨の箇所は他にもあることが示唆されています。なお私見では、「ユニテリアン的」という表現は「従属論的」に置き替え、「キリストと告白する」の「キリスト」には他の尊称である「主」とか「神の子」も含意されていると解する方がよいと思います。 このように、存在論的・従属論的キリスト論が指摘される一方で、織田昭氏は、「父=神」と「子=キリスト」との「二重写し」という解釈を開陳しておられます(織田昭著『第一コリント書の福音』〔教文社〕195〜198頁参照)。「二重写し」といった表現は「存在論的」というよりは「認識論的」であり、興味深く感じます。
牧師や信徒の中には、御父の御子への全権委任(マタイ11:27、28:18、ルカ10:22、ヨハネ13:3、エフェソ1:20〜23他)や御子の名による救いの絶対性(使徒4:11他)に重きを置き過ぎて、パウロが御父の最終的な帰一(ローマ11:36、Tコリ8:6、Tコリ15:28他)を語っていることや、使徒ペトロの説教では一貫して「神」を行為の主体として語られていること(使徒2:33、36他)を軽視したり見落としている人もいます。甚だしきは、「ワンネス」だとか「ジーザス・オンリー」と呼ばれる立場の人々もいますが、それも聖書解釈の一つには違いないので、ここではこれ以上はふれません。
御父と御子との関係については「等しい」と言われてはいても、それは人間に対しての同等性、すなわち、共に「主」であるという意味での等しさであり、両者間では全く対等ということはあり得ません。Tコリ8:6で対照的に示されてるとおり、御父は「唯一の神」であり、創造主にして万物の本源であり目的地です(ローマ11:36参照)。これに対して御子は「唯一の主」であり、創造者ではありますが、目的地に至るための道であり媒介者です(ヨハネ14:6、ヘブル10:20他参照)。この主従的区別は、単に役割とか職務の違いとかでは済まされない本質的区別ではないかと思います。私はイエスが絶対者(=神)だとは思えないのです。ただし先天的に聖霊充満であったという意味では特別な人物だと思います。すなわち、イエスが生まれる前から神に選ばれ、唯一の媒介者として召されていたということです。 清水哲郎著『パウロの言語哲学』(岩波書店)でも、パウロは、ヤハウェとイエスと人との関係を、神、神のエイコーン、そのエイコーンのエイコーン・・・という階層的区別で捉えていたとのことで、「神のエイコーン=神の子」は「(子なる)神」と存在論的に区別されています。
パウロには「神の力、そして神の知恵としてのキリスト」(Tコリ1:24)という表現もあります。これもパウロの従属論的キリスト観が明示されていると思います。キリストが神であると思っていたなら、どうしてこのような表現になるでしょうか、実に不自然です。だからパウロは明らかにキリストを神の従位に置いてみていたと受け取って然りです。 パウロがイエス・キリストを「主」として信仰対象と認め礼拝をささげていた以上、キリストの神的性質を否定することは出来ません。ただし「一神教」原則に反しない範囲ですから、神と人との中間的存在としての「神の子」という神格でしょう。ちなみに史的イエス自身は何より「人の子」としての自覚を持っていたようで、マルティン・ヴェルナーという神学者は、「人の子」は人間以上の天使的存在であっても神ではなく、原始キリスト教会は、キリストは神とは絶対に告白しなかった、と言ったそうです。ただし、「史的イエス」と言ってもそのおもな研究資料が福音書である以上、「史実のイエス」とは言えないことは言うまでもありません。「史実のイエス」についてはほとんど何もわかりません。要は「福音書に証しされたイエス・キリスト」の構成要素として歴史上に存在していたということが確かであれば、それでよいのです。現実の歴史と全く関係のない「イエス・キリスト」では、「我を見る者は我を遣し給ひし者を見るなり。」(ヨハネ12:45)などと言っても、現実の歴史を支配して実在しておられる「神」の「体」を示したことにはならず、我々にとって「神の啓示」とは言えないからです。歴史的現実に根ざしていてこその「神の啓示」なのです。
聖書の「物語」の中でのイエスの発言において、「父なる神」を立てる言葉があり(「我が父を敬ふ」〔ヨハネ8:49〕、「遣わされたものは、これを遣わしたものより大ならず」〔ヨハネ13:16〕、「父は我よりも大なる」〔ヨハネ14:28〕、「神ひとりの他に善き者なし」〔マルコ10:18、ルカ18:19.マタイ19:17参照〕その他)、また、イエス自身が「父」を「わが神」と呼び、弟子たちに対しては「あなたがたの神」と呼んでいる場面がありますが(マルコ15:34、ヨハネ20:17他)、これらを古代教会の基本信条に照らして「まことの人」としての「まことの神」に対する言葉だと説明するのは、聖書の「神の物語」においても第一戒の一神教原則を前提とする限り、いかに解釈と言っても詭弁としか思えません。「イエス=神」と解し得る箇所があるとしてもです(ヨハネ1:1,18、10:30、14:9、20:28、ローマ9:5、テトス2:13、ヘブル1:8、Tヨハネ5:20他)。最大の詭弁は申命記6:4の「一(エハード)なる神」の「一」を、他の神的存在をも包含し得る複合的意味の「一」だと解釈することです。これは多神教的解釈とも言えるでしょう。歴史的現実においては、旧約の時代には「神」に「位格」などというものは認められていなかったのであり、聖書解釈における「啓示の漸進性」とか「新約の優先」などといった理屈が通用し得るのは、「歴史」と言っても「現実の歴史」ではなく、あくまでも「神の物語」における「救済の歴史」においてです。この点を区別せずに混同させて伝えるところにキリスト教の根本的問題があるのです。
以上は聖書で物語られている「主イエス・キリスト」についてであり、当方の立場に於いては、その素材とされている歴史上のイエスという人物に思いを及ばせてみるなら、「イエス・キリストは神である」という信仰の命題は「存在論的」意味では告白できないが、「認識論的」意味では告白できる・・・ということになります。
聖書における「神の物語」の中では「存在」する「イエス・キリスト」も歴史的現実には「実在」せず、存在するにしても言わば「唯名存在」としてです(ただし、その素材であるイエスは実存したので「架空存在」とは言えません。史的イエスが全くの架空の人物なら、そもそも「神の物語」の中の「主イエス・キリスト」も意味をなしません)。これに対して「神」と「神の霊のはたらき」は、聖書の内界(物語)と外界(現実)とを貫通して「実在」するのです。
私たちは教会生活の中で、「キリスト教」がまさに「キリスト中心」過ぎて、肝心の「父なる神さま」がないがしろにされているような印象を受けました。この私たちの印象は、必ずしもおかしなことではないことは、次のような文言にふれて実感しました。
<「キリスト論的称号」を用いたイエスの位置づけばかりを強調すると、キリスト教にとってもっとも重要なのがイエスであるかのような誤解を生じさせてしまう。キリスト教の運動にとってもっとも重要なのは、もちろん神であり、そして神と人の関係であるところの「神の支配の現実」である。これとの関係で地上のイエスは一つの役割を果たしただけである。(中略)また「キリスト論的称号」を用いたイエスの位置づけに限らず、イエスを不用意に重視する立場はキリスト教の流れの中にさまざまな形で生じている。いわゆる「キリスト中心主義」(christo−centriame)である。そして、イエスの重要性があまりに強調されているために、「キリスト中心主義」がなぜ問題視されねばならないかさえ分からない指導者も少なくない。>(加藤隆著『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』〔講談社現代新書〕255〜256頁)
この加藤氏の文言は、キリスト教の現状において最も核心的な問題をズバリと指摘している点で、とても貴重だと思いました。これほど本質的で的確なキリスト教批判はめったに見聞きできるものではないからです。

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