聖書の御神体

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zoom RSS (続) 「キリストの体」を抜きして「神の体」はあるのか?

<<   作成日時 : 2013/12/31 23:54   >>

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●クセノファネスの擬人神観(または神人同形説)否定

(以下は引用)
<クセノファネスは「神の存在」を否定しているのではない。ただ、人間的な本質を「投影」された擬人的な神観念を批判しているのだ。このような考え方は、彼自身が、祖国=共同体の滅亡、離反という経験をし、ある種、コスモポリタンな流浪者(根無し草)となったことと無縁ではないだろう。人間たちは神々が[人間がそうであるように]生まれたものであり、自分たちと同じ着物と声と姿を持っていると思っている(断片14)。クセノファネスの擬人化された神観念に対する批判は、神の本質が、人間的本質の延長上にはあり得ないという主張に集約されるだろう。この主張の中には、ギリシア神話のような、多くの属性をもつ神々が登場する「多神教風土」に対する否定も含まれている。多くの性格の神々がいるという考え方も、人間世界の近似値的な投影に他ならないからだ。次の詩片の言明は、彼の主張を明確に示している。神はただ一つ/神々と人間どものうちで最も偉大であり/その姿においても思惟においても/死すべき者どもに少しも似ていない(断片23)。クセノファネスは、擬人的神観念の批判を通して、人間(死すべきもの!)の認識における神の絶対的な「超越性」を示したのだ。逆に言えば、人間の「認識能力」には「限界」があること、「制約」があることを明確に言明したのである。クセノファネスは、人間存在の存在論的な位置の「相対性」、その認識能力の「限界性」「制約性」、その認識能力が生み出すところの「知識」の「不完全性」を表明したのだ。以上のクセノファネスの「不可知論」的な洞察は、人類が存続する限り、不滅の輝きをもつだろう。人間として、人間が置かれた形而上学的「諸条件」の思索に踏み出した者は、誠実であれば必ず、クセノファネスの洞察の前に立ち止まらざるを得ない。人の身で確かなことを見た者は誰もいないし/これから先も/知っている者は/誰もいないだろう/神々についても、私の語るすべてのことについても/かりに本当のことを言い当てたとしても/彼自身がそれを知っている訳ではないのだ/ただすべてにつけて思惑があるのみ(断片34)。わたしたちは「神」について、確実な知識を所有するのではなく、ただ、「思惑」があるだけだという。現在の言葉に翻訳すれば、「臆見」であろう。>http://happy.ap.teacup.com/togenuki/635.html
<【「一にして全 hen kai pan」】クセノファネス(テオフラトス)  最上のものは一でなければならない。それゆえ、世界は、単一の全体である神そのものであり、不生不滅、不変不動で、全体で認識し、万物を動かす。それが場所を変えることは考ええないし、何から生じてきたかも言いえない。そして、このような神は唯一であり、その姿や思想は、人間に比すべきではなく、なんら労せずにその精神をもってすべてを支配する。これは、擬人神観を退ける形而上学的な、汎神論的、一神的世界観を表すテーゼである。>
http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/philosophy/kodai/kodai01c.html

擬人神観の否定は当然のことながら「神の身体性」をも否定することになる。しかし「神」に何らかの「体」を信じられなければ信仰の対象たり得ない。対象なき信仰など信仰ではなく、庶民の日常生活から遊離した「度過ぎ」た哲学的関心である。クセノファネスが「唯一の神」にこだわり、「神」と人間との質的差異の断絶性を認めた点は尊重すべきだが、類比的方法までも否定する結果になるのだとしたら、それは行き過ぎである。なぜなら庶民的信仰においては対象をイメージする必要があるからだ。イメージはある種の造形であり彫像であって、「神の身体性」が前提となる。ところでなぜ「最上のものは一でなければならない」のか?それはおそらく分割できないからである。以下は同じ箇所からの引用。
<パルメニデス(断片6 l.43)  〈存在〉は、唯一にして、完全であり、不動で、不生不滅、分割不可能であり、それゆえ、いずれの方向にもゆがみなく、球形をしており、その中心からすべての方向に等しく延長し、時間的な外部もなく、そのどこにおいても等質的な〈存在〉性がある。これは、必然性が、いま、ここ、ということで、締め包み、閉じ込めているからであり、完全なる自己同一性、自己完結性を保っているからである。そして、このように〈ある〉ことがなければ、考え、見出すこともできないのだ。これは〈存在〉ということを論理的に探求してきた際の究極的な結論であり、言わば、心的世界の〈存在〉の様相を描写したものであると言えよう。>
「神」は「一」であって「三一」であり得ないのは、形而上学的理由としては言えるのだが、聖書の啓示からはどうなのかが問題である。「一」は「一」でも「単一」ではないというのが正統派の言い分である。
クセノファネスの「一即全」(hen kai pan)は考えようによっては(「即」が、滝沢克己氏の用語である「不可分・不可同・不可逆」の関係だとすれば)、汎神論にはならない。「全」のうちには「非人格」もあれば「人格」もあり、「無」もあれば「有」もあり、「無形・無体」もあれば「有形・有体」もある。だから「神の身体性」は「神の不身体性」との二重性においてではあるが認め得る。すなわち「一即全」においては、「神の身体性」は肯定されないが否定もされない。否、否定されかつ肯定されるとも言える。つまり解釈の自由である。そこに「神の自己限定」というドグマを設定しなければ形而上学は不可知論のまま神秘主義へ赴く。「神の自己限定」のドグマは、聖書的には天地創造における「収縮」と「御子キリストの十字架」に象徴される。但し私は「収縮」のドグマは論理的に成り立たないので認めない。結局、「神の身体性」などの形而上的思弁への執着を断って、ただ、「生命の根源としての『神』、人生のアルファーとオメガの支配者」というところに落ち着くのが精神的に一番良い。但し、あくまでも「意思」を持つという意味で「人格神」であることが前提。他者性なき宗教からは倫理が生まれてこないから。哲学的に「根源」でとどめてはダメ。あくまでも人格的に「根源者」と言い表してこそ聖書的神観である。
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。 」(新改訳 ローマ11:34〜36)
「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。」(同、Tコリ8:6a)


●「聖書のイエスの復活体」と「歴史のイエスの肉体」

そもそも、「イエス・キリストの体」を抜きした「神の体」などというものを聖書から読み取ることができるのでしょうか?旧約聖書だけでは不十分ではないのでしょうか?
「三位一体」の教義の元は、ヨハネ福音書1章のロゴス(=御子)の「受肉」であり、「神が人となった」ということですが、その奥義は何かと言えば、結局、神の得体が定かになることであり、啓示の意義とはまずもってこれであろうと思われます。(ここで敬体は止め!)

ウェストミンスター信仰告白2の1の、「ただひとりの(1)、生ける、まことの神(2)がおられるだけである。彼は、存在と完全さにおいて無限であり(3)、最も純粋な霊であり(4)、見ることができず(5)、からだも部分(6)も欲情もなく(7)、不変(8)、遍在(9)、永遠(10)で、とらえつくすことができず(11)、全能であって(12)、」にみられる問題は、神には「からだも部分」(もない)という根拠聖句として、申命記4:15(〜16)とヨハネ4:24はよいとして、ルカ24:39が引かれていることの意味である。これは主イエスの復活の体について言われたものであり、むしろ、ヨハネ20:27などと共に三位一体の神に「からだ」があると解する典拠の一つとなる。だから、神に「からだ」がないと解する根拠となる聖句ではなく、逆に、神に「からだ」があると解する根拠となる聖句である。さらにルカ24:39は、新共同訳で「亡霊」と訳されるギリシャ語「プニューマ」は「霊」とも訳せる。これはヨハネ4:24で「神は霊なり」と言われているところの「霊」と同じ言葉なので、矛盾するとみることも可能。

要するにルカ24:39やヨハネ20:27の主旨は、肉体を軽視する異教的思想へのアンチテーゼであり、神に(物質的)身体があることを主張するものではないにせよ、「霊」という表現では言い尽くせない、むしろ誤解を招くおそれがあること、すなわち三位一体の神はあやふやな存在ではなく確かに人格的に実在するお方であるということ。これがイエスの「受肉」の秘義であり、また「復活の体」の意味であること、イエスが「真に神」であると同時に「真に人」でもあることの意味であろう。聖書は「偶像崇拝」への警戒から、神が形なく見えない存在であることを強調しているのだろうが、その「神のかたち」がキリストであるとも言われており(コロサイ1:15)、御子が父と同一本質の神であるという教理の主旨がこの点にあると思われる。つまり歴史上に人として存在したイエスの身体を抜きにしては神の実体性はわれわれに見えてこないということである。「神、人に成り給へり」という受肉の真理がここに隠されていると思われる。歴史と無関係なことに確かさはなく、人として生きた「体(からだ)」以外に人格的存在としての「体(からだ)」はない。いくら神は実体であると哲学的言辞を弄しても、その神が人間の歴史現実から天高く離れた存在では「遍在」も「内在」も空理空論にすぎない。



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