聖書の御神体

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zoom RSS 「実体」の実際的定義

<<   作成日時 : 2013/12/31 23:55   >>

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「聖書神体論」でも「実体」概念は不可欠だが、西洋哲学の「実体」の定義は多様だし抽象的すぎて生活に根差した思想には使えない。特に「実体=本質」という説が受け容れ難いが、「実体≠本質」説もある(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11115869656?__ysp=5a6f5L2TIOacrOizqg%3D%3Dのkrspmbzxikqwclmbzaihyさんの回答を参照)。

実際的な思想は、あくまでも多くの人々の実感に裏打ちされたものである。その観点から「実体」概念を捉え直したい。
自分の実体性をより強く感じるのは「神」の実体性を実感する時である。そして同時に「自我」を放棄してもよいと感じられるほどに夢中にさせるリアリティーが「神」なのである。「神」への「自我」消滅(というか没入)。

国木田独歩は、「~を忘るゝ時程薄弱なるわれは非ず。」(〜『欺かざるの記』明治26年9月8日)と述べているが、私の場合、「神の実体が不確かな時程薄弱なるわれは非ず。」である。私にとってはキリスト教神学における「神」は得体が知れない。E・ユンゲルの「神の存在は生成においてある」(Gottes Sein int im Werden.)という命題に象徴されるように、特に現代神学の神観はワケがわからない。然るに、信仰の対象である「神」が、そのような得体の知れない存在であると、対神関係者の精神は不安定になり生活に支障をきたすわけで、「神」の実体性の問題は決して観念論的関心にとどまらず、実践的な面でも重要である。
福音書の中のイエスと出会ってはじめて「神」を知るということは自分には無い。イエス抜きでも「神」認識は成り立つ。それは人が生得的に「神」の観念を持っていると云われるように、聖書の「神信仰」に縁ある者は生得的に聖書が啓示する「神」の観念を与えられているからである。ただし、福音書で物語られているキリストの身体性を抜きにして「神」の実体性を実感することはできないとは思う。


(以下、丁寧な言い方に変わります。)

ところで一般的には、自分の実体性をより強く感じるのは、自我に対して肯定的状況より否定的状況すなはち限界状況です。その意味では人生の負の経験にも意義を認め得るのです。そういえばTV朝日の土曜ワイド劇場の終着駅シリーズ「霧笛の余韻・小樽不倫の旅、死の匂いのする女…失踪した姉は殺されたのか!?」〔原作:森村誠一、脚本:池広一夫(?)〕で、双子の妹(役は吉本多香美)が姉を殺害した動機として、「姉の影・亡霊のように生きたくはなかった。自分は自分であり実体として生きたかった。」と最後の謎解きの場面で述懐したことを思い出します。まさに我々一般人が感じている自分の存在感というのはこのような意味での実体感であり、「自己,自我=実体」を否定する哲学や社会学の説の方が現実から遊離した机上の空理空論・観念論です。たしかに、「実体=自存するもの」とするなら人は他者との関係を抜きしては存し得ないので「実体」とは言えません。然るに病とか障害はなく特に身体に異常がなければ、とりあえず人は単独で生きておれます。衣食住を全部、自前で済ませることは不可能などといった理屈を言い出せばキリがありません。「実体」ではなくても言わば「半実体」として「実体的」な在り方は可能だと思います。だから私にとって「実存」とは「現実存在」とか「事実存在」の略としての意味ではなく「実体的存在」の略なのです。現実経験として自我には実体的性質があります。
私が今まで読んだ自我論関連の本の中でよかったのは、八木誠一×岸田秀『自我の行方〔増補版〕』(春秋社)と岸田秀コレクションの中でも特に『希望の原理』(青土社)と酒井潔著『自我の哲学史』(講談社現代新書)くらいです。酒井氏の本は現実社会を踏まえた実際的思索になっている。私は自我なるものの不確かさもわかっている。免疫学者の多田富雄氏が胚段階でのヒヨコとウズラの脳入れ替え実験における免疫の脳に対する拒絶の話や日常における細胞の生と死の繰り返しの話で個体の「自己」と「非自己」の二重性などを指摘しておられることは興味深いし、深層心理学でも自我が意識的であるより以上に無意識的であることが説かれている。しかし問題はそういう客観的な話や仮説ではなく、要は自分自身が個別的限界状況に置かれた時に自分というものをどう感じるかである。少なくとも死を前にした時に、自分の存在に対する尊さ・かけがえのなさを痛感することがあると思う。それは自己愛というより、自分のような者をも生かしてくれている「神」の愛のかたじけなさでもある。使徒パウロはそれをキリストとの関係として実感した。彼は、死を前にした時というより常に終末意識で生きていたのだ。そこで「自己」(=パウロ)と「非自己」(=キリスト)とが不可分・不可同・不可逆の関係として自覚されている。人生は不条理感が逆に自分の実体性を希求し、そのプロセスにおいて実感することになることが多い。もちろん上記のドラマのように自分の存在感を得たいがために人殺しをするというのは許されないことだし、殺意自体は人間現実として避けられないとしても何かで克服してゆくプロセスにおいて本来の自己に立ち返ることがなければならない。だから逆境の積極的意味付けも程度問題であり、イスラエルの民がエジプトでの奴隷としての労働が厳しすぎたので意欲を失い、モーセの言葉に耳を傾けようとしなかった(出6:9)ように人間はあまりに不遇だとなかなか理性的には生きられない。人は生物的にもけっして特別ではないのだ。双子としてのストレスも他人にはわからない深い苦悩になる人もいるだろう。だから神は信者に対して人間として耐えられないような試練に遭わせることはないといわれている(Tコリ10:13)。あまりに不遇であるとか、たびたび逆境に遭うのでは肝心の身がもちません。とにかく自己の存在実感と限界状況の度合いは比例します。それが実存ということでしょう。最も自己存在の尊厳を感じるのが死の現実に直面した時です。その時、「宗教的実存」が成立するのです。「平生業成」は「メメント・モリ」と矛盾せず、むしろ密接に関係しています。死への先駆的決意なしの「業成」もへったくれもあり得ないからです。人は平生に自分自身の死を自覚し覚悟することにおいて人生の目的を見出せるのです。しかし究極の目的・大目的は死の恐怖を乗り越えて平安のうちに逝けること。「宗教的実存」といえばキルケゴールですが彼の場合も逆説であれ何であれキリストを神格化し、結果的にはカルケドン信条の神人両性一人格キリスト論に乗っかっているので導師たり得ません。彼は伝統的キリスト教に反抗したのではなくデンマークの国教会を批判したのであり、彼の時代はまだ批判的聖書研究が本格化しておらず教会の教義に対して批判的とは言えず、彼はカルケドン信条主義的です。
私の場合、人は「人間」とも言うとおり関係存在であることは理解しているにしても、仏教思想のように実体性を一切否定してわけのわからないところにまで及んでしまうのではなく、程々のところで、つまり、自我社会学などでラッキョの皮むきのたとえで説明される程度にとどまる必要があります。自我(そもそも「自我」、「自己」、「自分」といった用語の使い分けの必要など無い)に哲学的実体性は認められなくても、やはり社会生活の主体としては身体性・個体性が実体的感覚を帯びるのであり、それを幻想とか錯覚として切り捨てることは、まさに現実から遊離した戯論になると思います。
<「あるもの」が「ある」と言えるのは、それが「複数の述語」を持つ限りにおいてである。第一に、あるものについて、それを語るいくつかの述語があるときに、それらの述語を担う主語として、実体(存在するもの)を考えることができる。>(〜「観察と感想7・菊地惠善の哲学ノート © 2008 Eiyoshi Kikuchi」※菊池氏は九大の哲学教員)
<実体の消失。──(1)「実体」とは、同一性を保つものであり、その同一性によって他のものから区別されるものである。したがって、区別される限りにおいて、ものは別々のものとして存在し、逆に、区別されない限りにおいて、同一のものと見なされる。
(2) このような定義に従って現代社会を見ると、現代社会のあらゆる場面から、かつては実体と見なされていたものが、次第にその境界が曖昧になり、ものとしての存在を徐々に失っていっている、言い換えれば、いろいろな実体が消失しつつあるように思われる。それは例えば、学校、会社、家族、土地、お金、国家などである。
(3) 学校は統合や廃校によって、あるいは名称の変更によって、母校という連続性は簡単に失われる。会社もまた、買収や合併によって変化するし、転勤や配置転換によって自分の仕事も簡単に変化する。家族もまた、かつては土地に根差し、血縁に繋がり、延々と歴史を貫いて連続して来たものであったが、今では両性の合意によって、夫婦も親子も仮初の関係を営むだけになっている。お金は、かつては金銀財宝といって所有物の典型であったが、今では銀行口座の通帳に記される数字やカードでやり取りされる計算になってしまい、文字通り名目だけの存在になっている。携帯で株を売買し、大損して自己破産しても、それは数字の操作で生じた事実でしかなく、本当か嘘か、その事実を実感しようにも確かめようがない。そして、国家。国家との関係はただ、国政選挙の投票や旅券の申請に際して意識されるだけで、日本国民として意識が上るのは、スポーツの国際試合くらいのものでしかない。国政の最高責任者である総理大臣でさえ、任期途中であっさり職を投げ出すのであるから、国家や国民の意識は相当希薄になっていると言えるだろう。(いつか近い将来、万世一系の天皇でさえ、自ら退位して民間人になりたいと表明するかもしれない。)
(4) 実体の消滅は、実体に支えられていた現実の存在が曖昧になり、薄弱になるということである。実態(「実体」か?〜ブログ記者)はその自己同一性によって、内と外、自己と他者を区別していた。しかし、その実体が消失するとすれば、それを基盤にして築かれていた現実が現実であることを失うということを意味する。学校や会社や家族がその連続性を失い、いつなくなるかもしれない仮の集合体でしかないとすれば、個人としての人間も自分の連続性を失うことになる。単なる数字でしかないお金も、携帯電話で繋がるだけの友人も、実体があるのかないのか、益々曖昧になっている。こんな虚構の人生で唯一つ確かなのは、自分の決断であり実行であるとして、自殺によって現実を取り戻そうとしても、自殺によって証明されるのは人生が虚構であるということだけである。死んでしまえば、元よりなかったも同然な人生であることを確かめただけのことになるだろう。
(5) 殺人事件も一旦テレビの画面からニュース映像として放送されると、虚構のドラマと区別がつかない。このようにすべてが虚構めいた人生と現実の中で、さて、何が一体本当に「存在する」のだろうか。(10月28日)
(6) すべてのものが実体性を失い、現実全体が一つの大きな虚構のように見えてくる、この時、これが丸ごと反転して、この虚(構)である現実が、正に虚であることによって、虚であるがままに全体として大きな現実であることが知られる、これが荘子の言う「道」であり、その「一」を知ることが「天籟を聞く」ということなのかもしれない。そう言えば、荘子こそ、確実なものが何一つない戦乱の最中に生きた思想家ではなかったか。現代日本の不確実性など、中国の戦国時代のそれと比べれば、まだまだ高が知れたもののはずである。(10月30日)>(〜「観察と感想100・菊地惠善の哲学ノート」)http://www.geocities.jp/eckiku/kansou100.htm
そもそも「実体」という言葉からして、自分のような素人がへたに使うと、哲学をやっている人から誤用だと指摘されかねません。人によって定義とか理解に違いがあり、「定義」の定義もあります。上記引用文のようにわざわざ定義を示しても、素人の場合はその内容が誤りとされることもあります。素人が専門用語を使うと、大概の発言・叙述は恣意的とか主観的と批判されてしまうことになるでしょう。上記引用文に於ける「実体」の用例は、専門家の定義によるものですが、「学校・・・家族・・・国家」を果たして「実体」と言えるかどうか?その「定義」は、アリストテレスに於ける「実体(ουσια)」の定義、「存在(ον)」の「範疇(κατηγοριαι)」としての意味と合うのかどうなのか・・・素人にはよくわかりませんが見解は分かれるでしょう。とにかく、よく耳目にふれることは「自我は実体に非ず」ということです。他者との関係なしにはあり得ない、すなわち自存し得ない、関係性という皮の束だとか言われます。ラッキョウやタマネギに喩えた説明がこれです。それはともかく、ある人は「実体」について「言葉の意味の実体」と「本質の意味の実体」とに分けて説明しています。「自我は実体に非ず」の「実体」は前者です。名前だけの「概念」は前者の意味の「実体」が無いのです。しかし自我にも後者の意味の実体・本質はあります。般若心経の「色即是空」の「色」は前者、「空」は後者だそうです。後の引用文にもある「身体」は実体とは言わないのですが、上記の「土曜ワイド劇場」のドラマの例のように同じ「体」として感覚的に同様の意味で使われることはあるでしょう。私はその意味で「自我に実体性あり」と言うのです。それは哲学的命題ではなく感覚的表現であり、言わば詩的言語ですから、いちいち詮索されても困るのです。考えはそれ以上、過ぎないようにしたいものです。しょせん哲学的説明など日常生活の中では屁理屈にすぎません。もちろん自己満足ではダメで、それなりの人物に読んでもらって共感を得る目的があるなら、用語はそれ相応の正確性がなければなりません。しかしそれも程度問題であり、哲学的に厳密な定義を要求する方がどうかと思うわけです。そういう読み手は想定外でよいのです。そもそも書くべき内容・思想自体をより簡易にする必要もあります。思想を簡易にしても論文ではなくエッセイなので、たとえばコーヘレト的「神」信仰の要諦を表現することは可能です。知ったかぶりで専門用語を使うより、共通理解の幅が大きい日常的な言葉を選ぶことが賢明です。「存在」は哲学用語というより日常用語です。「実体」などとは比較にならないほど使用頻度が高く共通理解が圧倒的に大きいのです。だから定義不要です。しかし哲学者はその単純な言葉をわざわざ複雑に語るのです。哲学こそ「考え過ぎ」の学問分野であり、精神衛生には非常に悪い世界です。とにかく素人思索者は「考え過ぎ」ることは百害あって一利なしです。以下、引用を多めにしますが、それもまた、ひねくれた哲学的人間が読めば牽強付会的作文にすぎないとみなすでしょう。

「ブーバーなどは、汝の奥に、永遠の汝の面影さえ予感して、神の前に立つ自己の存在の確認を、汝との出会いの延長線上に設定するほどである。(中略)さりながら、そうした他者のうちに、たとえば、サルトルは、むしろ逆に、鋭く私の秘密を握って、私に対して支配力を行使しようと隙を窺っている、油断のならない『まなざし』を予感した。したがって、そこでは、自他の関係は、永遠に自由をもった者同士の『相克』が宿命となる。調和的な共同主観などは幻想であり、むしろ、個別的な自由な主体同士の峻烈な争いと闘いが、対人関係の根本事実と見なされたわけである。」(渡邊二郎著『自己を見つめる』〔放送大学叢書〕p186〜187/同著『人生の哲学』〔放送大学教育振興会〕p147〜156参照)「実際、現代においては自我の安定が崩れるのは他者との関係においてです。」(岸田秀著前掲書p93)
「たしかに私のこの身体は存在していますが、この身体を私の身体であると言うときの私というものはそれ自体としては存在していません。私が私であるというのは、他との関係で私なんですから、そういう関係から切り離したら、私というものはなくなってしまうわけです。(中略)属性の集合が自我なわけです。」(岸田秀著前掲書p14 ※下線部の文字には傍店がふられている。)
岸田秀氏のように自我を必要悪とするのでもなく、よくもわるくも生活の主体であることを理屈抜きに受け入れる以外にはないのだ。その点で社会経験の乏しい、世の中の辛酸をなめていない牧師や神学者が安易に自我を否定するようなことを言ったり書いたりすることの愚かしさを感じる。自我に古いも新しいもない。この、今・ここに生きている自分自身が生の当体のすべてであり、過去・現在・未来にわたって同じ個体である。宗教的実存とか言っても日常生活で煩悩を抱えて右往左往し、怨憎会苦や愛別離苦を経験しているこの「私」に変わりは無い。宗教であれ何であれ、私は人格が激変するようなことは信じないし、少なくとも自分の身にはあり得ないことだと確信しています。その点で下記の八木誠一氏の言われることはわかります。自我の積極的側面の認識は岸田秀氏との対談(「自我の行方」)が少なからず影響しているのではないでしょうか。それとも元々でしょうか。
<問題は、人間が「単なる自我」となるところにある。よく、宗教は自我を否定するとか、自我を滅ぼすとかいわれるが、自我が消滅したら人間は人間でなくなってしまう。問題は我執的・我欲的に変質した自我を正常な自我に戻すこと>云々(〜『<はたらく神>の神学』(岩波書店)p6〜7)
八木氏は、同じく「自我」といわれるものを「自己を映し表現する自我=『自己・自我』」と「単なる自我=自分が自分のみによって成り立つかのように自分を主張して我執的・我欲的となる自我」とに区別します(同、p6〜7参照)。そして、<新約聖書、特にイエスとパウロは、人間が「自己」を見失って「単なる自我」となることに最大の問題を見ていたのである>と言われます(同、p12)。しかし後述のとおり、競争社会の現実に於いては、一時的に「自己」に目覚めるということはあっても常時、「自己・自我」であることは不可能に近いでしょう。それではやってゆけないからです。そういう社会であり、それが現代人の大半にとっての限定なのです。八木氏の「神学」を実践し得るのは経済的,身体的に余裕のある知識人くらいでしょう。多くの庶民は「単なる自我」である時が多いのであって、それをより「自己・自我」である時に変えることが課題となるならわかります。しかし「単なる自我」を全否定することは現実的ではありません。理想論となります。従って現実的,大衆的(救済)宗教は親鸞教のように、あるいはコーヘレトの神信仰のように「他力」信仰になって然りです。すなわち人格主義的宗教です。あるいはまた、カントが道徳的意味で要請した「神」も人間を超えた人格的存在であって然りです。とにかく人間を超越した存在でなければ人間の欲望を制限できません。内在の神では無効です。この点に関しては、八木氏は次のような説明をしています。
<自己は人間性であるといっても、それは普通の意味の人間性を超えた人間性である。普通の意味での人間性は我欲・我執的だから、この意味での人間性からみると、自己は超越的(むろん、同時に内在的)にみえる。実際、自己は超越のはたらきを、いわば宿すのである。言い替えれば、われわれは自己が現れたときに、そこに人間を超えたもののはたらきを認めて、それを「神のはたらき」とか「仏のいのち」などと言い表す。あらかじめ別のところから神や仏を知っていて、そういうのではない。そうではなくて、人はそこではじめて神や仏を知るのである。自己を、身体における神のはたらき、仏のいのちとして知るのである。そう言い表し、そう名づけるといってもよい。だからここで、「神は人間のなかではたらいて、人間の意欲とはたらきを成り立たせる」というような言表が成り立つのである。神は、まずは「自己」が人のなかにおける神のはたらきだという認識からして、知られるのである。この意味で、「愛する者は神を知る。神は愛だからである」といわれる。まさにこの意味で、自己は神と人間との作用的一だ。実体的一ではない。>(前掲書p158〜159)
つまり、コーヘレトの場合で言えば日常の労働などに見出される悦びを贈り物・賜物として与え給う「造り主」なる「神(エロヒム)」は、「自我より深い自分」である「自己」という「はたらき」であり、それは「他者ではなく自我のいわば奥、自分自身の中心である」ということになる(前掲書p154)。このような説明もまた相対性を免れ得ないが、仮にこの説明が正しいとしても、少なくとも表現に於いて「自(分)」と言われ「他者」ではないとされることが宗教として問題である。何故なら宗教の決め手は(救済の)リアリティーであり、「自」の側にはもはや何も無いという絶望感・無力感が救済を求める動機になる場合には、「他」の側の存在なしには成り立たないからだ。実態はどうであれ、表現としては「他者、他力」が言われなければならないし、Godや阿弥陀仏のように人格的他者としてイメージされてこそリアリティーを得られる(=救われる)のである。その点で、八木氏の「自己・自我」の思想は救済宗教には不適であり、カント的道徳宗教にも相応しくない。私のコーヘレト的神信仰の応用にも使えない。要するに八木氏の宗教思想は冷め過ぎ、考え過ぎで実際的ではないのだ。宗教は生活の中で生きられるものであり、純粋に普遍的真理を究明されるべきものではない。どんなに整然たる論理を展開しても、要は人間、特に一般大衆が実際にそれを生き得なければダメなのだ。
人格神はその威力(霊)をもって人間の欲・煩悩を制限し諦めさせるためにこそ要請される。欲の一つである「知欲」の制限・・・「考え過ぎ=思い煩い」を防止することもまた、「神」を人格的存在とみなしてこそである。生活に即した、地に足の着いた実際的宗教生活を営むには知欲が限定されなければならない。その限定が無理ないものであるためには、我々の必要を知っておられる「天の父」(マタイ6:31〜33、ルカ並行)としての神観こそ「必要」なのである(この箇所を八木氏は神の配慮とはみなさぬ独自の解釈をしておられる〔前掲書p208参照〕がどうかなと思う)。その人格神との関係が成り立っているからこそ、その関係(=「神の支配」)を生きることに集中できるのだ。
「神」は「意識」の次元での信仰対象であり、同時に無意識の次元での「はたらき」であり、その「二重性」に於いて存在している。その点では遠藤周作氏が、「仏教の唯識論では、この無意識を阿頼耶識とよび、(中略)この無意識の奥にまた何かあるかもしれない、それがキリスト教でいう魂、神の働くところであって(中略)仏が働いたり、キリストが働くのは、意識の世界ではなく、この心の奥底なのだな、働く場所はそこなんだな、と感じてきました。意識よりも、そこの部分のほうで神や仏は人間をつかむんじゃないかな、と考えるようになったのです。」(『私にとって神とは』〔光文社.単行本〕p28〜29)ということは共感できる。しかし「神」の「絶対」性という点で言えば、そのように言葉で語られる時点で「神」は「意識−無意識」という二項対立により相対化される。つまり「意識(の世界)で働く神」との相対性に於いて在る「無意識で働く神」は人間が理解し得る対象化された偶像としての「神」にすぎない。そもそも「はたらく」という表現からして人格的比喩であり、場所論的「神」も人格主義的言語を全く用いずには伝達することは困難である。それこそ八木誠一氏のように記号化して伝えなければならないが、そのような在り方自体、宗教、特に「救済宗教」には相応しいことではない。
このようなこともまた「考え過ぎ」であろうか?人によってはそうだろう。信仰生活においては、ここまで論じる必要などないと・・・。たしかにそういう感じはあるが、私にとってはこの程度はまだ「過ぎ」てはいない。むしろ考えなさ「過ぎ」が三位一体論のような不毛な議論に陥らしめ、時間や労力を浪費することとなる。すなわち「三位一体」は「人格神(観)」という比喩を前提とし、その枠組みの中での論理であるから、しょせん「神ご自身」の直示ではないと相対化できるのである。それをまるで「神ご自身」であるかのように、言わば「写像」の如く語るのが正統的キリスト教の人々である。
「仏教の世界観は・・・実体論的世界観ではなく、関係主義的世界観」であるという。そして「対象論理的な認識を透脱して、心そのものを自覚し、さらにその心の本性をも掘り下げて、そしてついにはこの現実世界にまで到達してしまうのである。そこは、もはや心に対する物の世界ではなく、自己が無限の関係性のなかに組み込まれていて、しかもその世界全体がそっくり自己であるような、そういう世界として限前する」という(〜竹村牧男著『入門 哲学としての仏教』〔講談社現代新書〕)。
このような「関係主義」の「仏教の世界観」も、私にとっては創造主への信仰を前提としてはじめて意味をなすのであり、創造信仰を否定して説かれるなら「無用の真理」でしかありません。「場所論」であろうと「関係主義」であろうと、あらゆる思想は聖書的宗教の基礎である創造主の実在を公理としてこそ有意味性判断基準で可となるのです。コーヘレト書でも「空」を語る一方で「造り主」を語っているとおり、それほど創造主信仰は重要です。なぜなら、創造主なくして世界の、あるいは社会の不条理(=虚無=空)に耐えることなど出来ないからです。天地創造ということは公理であり、科学的・批判的に論じるべきことではありません。「人は多言を弄して空しさを増す。」(コーヘレト書6:11)とあるとおり、語り過ぎ,考え過ぎは自ら首を絞めることにもなりかねません。自分で自分の足場を崩す危険があるのです。論理実証主義が西洋哲学の無用な造語を排除したように、自分のような素人思索者も、仏教思想などについてはそういう判断をする必要があるのです。生活現実から遊離した思想は排除されなければなりません。特に「自己(自我)」について考え過ぎることほど精神に有害なことはないと思うのです。世間の常識はまさに「基体と作用をあらかじめわけておいて、しかもつなぐ」(上掲書p71)のであり、それが対象的思惟なり主−客対立思惟による歴史的社会的現実というものなのです。場所論とか関係主義といった複雑な考え方は、主流の思想を補完するものであっても、それ自体が主流になり得るものではありません。歴史がそれを要請しないからです。
「一般の哲学者は、体系をつくったときに思考を停止しているんですね。(中略)ニーチェは、哲学者のなかでは例外的だと思うんですけどね。体系をつくらなかった人ですから。体系をつくらなかったということは、疑って、疑って、停止線を設けなかったということじゃないかな。そのため、結局は発狂せざるをえなかった、ということだと考えてますけども。」(岸田秀著前掲書p54)
同じ「労働」でも一般に「肉体労働」と呼ばれる種類の仕事に就いている者においては特に、自分の座は「身体」または「肉体」として実感されます。「身体」と「肉体」とはいちおう区別されますが、それは「肉体」が「精神」の対概念として用いられるからです。これに対して「身体」は精神と肉体との総体としての意味を持ちます。「肉体労働」と「頭脳労働」の区別は、主として使うのが体力か思考力かということであり、「労働」は「身体」によるものであることに変わりありません。「身体」に関しては哲学者などが色んなことを言ってきており、特に市川浩氏の「精神としての身体」論のように人間の身体を悪戯に拡張して論じるようなことはまさに観念的思弁であり、種村完司著『心−身のリアリズム』〔青木書店〕の中で批判されているとおりです。肉体が自分だと言っても、手や足が胴体から切り離されたとして、その分離された手または足は果たして自分だと言えるのか・・・などと言った屁理屈を平気で活字に出来る市川氏のような暇人が「哲学者」と称する人種の中に少なくないのであり、そういう無意味なことを書き連ねた書籍が「学術文庫」として腐るほど書店に出回っているのは公害としか言いようがありません。
あるいはまた岸田秀氏のように、人間は本能が壊れた動物であり、本能の代わりに自我を持っているのであって、その自我は必要悪である・・・と言うのも、市川氏のくだらない身体論ほどではないにせよ、やはり過ぎた考え、過ぎたもの言いだと思います(ただし、市川氏も『精神としての身体』〔講談社学術文庫〕の中で、現代思想界の関係主義的潮流への批判とも読めることを一部ですが述べています。今は具体的には指摘できません。また、上田閑照氏の『私とは何か』〔岩波新書〕の中でも自己が関係の網の中に解消される危険性についてもふれられていたと思いますが、これもうら憶えで手元に本が無いので確認できません)。

我々は自分という現実存在の確かさを労働などの経験を通じて日々、直覚しているのであり、良くも悪くも生活の主体であることを理屈抜きに受け入れる以外にはありません。その点では養老猛氏の唯脳論の立場における「心は脳という構造の機能である」という説の方が説得力を感じさせます。「唯脳論」は「脳一元論」ではないのです。人間存在という対象を「脳=構造」と「心=機能」の二つの側面で捉えるのです。
私の考えにおいては、人間は「物質」と「非物質」の二重性における現実存在であり、肉体労働の生活においては非物質的世界の思弁性が後退して物質的世界向きの実際的思考が強まります。「身体」も「肉体」も我々にとっては「体(からだ)」です。「らく」だとか「きつい」と感じる当体であり生活経験の主体です。実存する主体という意味での「実体」です。我々は、この「体(からだ)」としての自己であり、この「体(からだ)」でもって生き、苦楽を味わい病に冒され、そして死ぬのです。
「自我はラッキョウのようなもので社会的役割という皮だけだ、実体など無い・・・」などと言っておれる人は余裕ある知識人くらいなものでしょう。自己の「他者との交換不能性」の意識を批判し「ひとまとまりの自己」などという思い込みは錯視だ、幻想だなどと論じたところで、その論者自身の実存とは切り離されて言われていると思います。限界状況に身を置けば意識が変わることもあります。むしろ個人が、論者が批判する「他者との交換不能」なかけがえのない「ひとまとまりの自己」であり実存であって、自他勾配、自他の優勝劣敗比較において成立している存在だからこそ人権をめぐる裁判が起きるのではないでしょうか。日本の現代社会における法体系は「ひとまとまりの自己」といった個人を前提として成り立っているのではないでしょうか。それが我々が生きる現実なのであって、論者が活字の世界で展開する思考の世界こそ幻想だと思います。それは論者が我々、身体を酷使する労働生活者とは違う環境に生きているということと無関係ではないでしょう。とにかく彼ら「自我」論者たちは職業として何かしらどうでもよいことまで掘り下げて語るのであり、無責任にも「『自我』のあり方、『主体』のあり方、『アイデンティティ』のあり方の転回」などといったことを語るのです。そのような連中が呈示する「自己」は一般大衆にとって、「考え過ぎの自己」なのです。(『岩波講座 現代社会学2 自我・主体・アイデンティティ』所収の諸論文参照)。思惟のどこまでが「過ぎ」てはおらず、どこからが「過ぎ」てしまうのかという境界については人それぞれの情況に応じて異なるでしょう。しかし自分の内ではその境界線を引くことができなければなりません。
ラッキョウの皮むきの喩えはよく使われるが、八木誠一氏も次のように述べておられます。
<「我思う。ゆえに我あり」といっても、この立場が主体の自覚の立場であるといっても、この自己は非我から峻別された自己なのである。ところがこのような形で自己を求めてゆくと、すなわち「非我ではない我」を求めてゆくと、自己の真相は見失われることになってしまう。たとえば自己を精神として自覚すると、一切を精神の自己展開として説明しようとしても、この自己理解はやはり物質としての自己の反抗を招くのだ。つまり非我ならぬ我をどこまでも求めてゆくと、いわばラッキョウの皮をむいて内部にラッキョウの実体を求めるような結果となる。むき棄てられた「非我」が、かえって「我」であることを主張し出すのだ。実際、観念論を完成させたヘーゲル以後、フォイエルバッハ→マルクスは唯物論を立て、ショウペンハウワー→ニーチェは生の方が精神より深いことを説き、シュティルナーは観念存在はエゴイズムの所産だと主張した。つまり自己認識に際して、自己が自己を対象化すると主体が知の外に落ちてしまう。また主体的自覚といっても、そこで非我ならぬ我を求めるとその我は内容を失うのである。だから事実を対象化してその自己同一的内容を事物の本質とし、それを言表・伝達するという日常的知性と伝達の言葉の立場が克服されなくては、自己の何たるかはついに明らかにはならないのだ。」(滝沢克己×八木誠一『神はどこで見出されるか』〔三一書房〕p87)
確かに、このような理屈としては自分が厳密な意味では「実体」でないことはよくわかります。他の存在者との関係なしには存在し得ないからです。八木氏は他の著書、たとえば『宗教とは何か 現代思想から宗教へ』(法蔵館)では言語の構造と自己同一的自我の成り立ちの関係を詳説しておられます。その綿密さは見事と言うしかありません。しかしこのような言説も所詮、競争社会の中で生きている庶民の生活現実とは離れています。実用性が希薄だからです。少なくとも肉体労働者にとっては無用でしょう。特に社会の下層において煩悩を抱え優劣比較の対人関係の中で怨憎会苦の復讐心や愛別離苦の不条理を日常的に経験し神経をすり減らしストレスに苛まれ、肉体は常に疲労や痛みの重荷を負うて命を削るように生計を立てている者にとってはそのような本に目を通す余裕など精神的にも時間的にも無いのです。肉体労働者にとっては資本となる体力、その身体はモノ書きで食っている人々よりも実体感があるのではないでしょうか。哲学的意味での実体ではなく、実際に日々の生活において経験され感じられる実体こそが重要なのです。「日常的知性」(分別知)が倒錯であろうと何であろうと、これでしか生活を営め得ないとすればそれが庶民にとって、特に肉体労働者にとっての現実だからです。考え得ることは限られています。日々の生活を維持することに知力も体力も向けられ、たとえば無分別の分別というようなことを考える余裕など無いのです。西田哲学などなおさらです。宗教もより単純でなければ通用しません。親鸞教が発展した最大の理由はその簡易・寛容さにあるのでしょう。歴史的社会的現実から離れたところに真相なるものはありません。そしてその社会は競争原理で成り立っているアンフェアな世の中です。救いを求め「神」を信仰するにせよ、自他優劣比較の社会的現実から完全離脱することはできません。できることはせめて一時的に「避難」すること、「逃避」することであり、それが旧約聖書の詩篇などで「神」(との関係)を「避け所」(マフセ 又は マハセ 又は マーオーン)とか「隠れ場」(セーテル 又は ミスッタール)、ひいては「休息場、憩い場」(メヌーハー)などと表現していることの象徴的意味だと解しています。






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「実体」の実際的定義 聖書の御神体/BIGLOBEウェブリブログ
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