聖書の御神体

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zoom RSS 聖書神体論と汎在神論 U

<<   作成日時 : 2013/12/31 23:56   >>

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聖書神体論の主戦場は創造論です。「神」の天地創造(=無からの創造)において、「神」はその創造の材料をどこから持って来たのか?という大きな問題が生じるからです。「神」の自存性からすれば「神」ご自身の「外」にそれを認めることは出来ません。しかし「内」に認めることは「汎神論」につながります。このアポリアの解決法(というか解消法)は、このような形而上学的な問題は判断停止して気にしないようにするか、「神」は「全能」なので、「汎神論」にはならないような仕方で材料を用意できたということにするか、そのいずれかしかないと思います。
伝統的キリスト教の創造論ではアウグスティヌス以来、神の創造の業を「外へと向けられた神の働き」として三位一体論的な「内へと向けられた神の働き」と区別したが、神が人間と自然とを外部から創造したという考え方では「神の遍在」の教理と矛盾するということで、今度は「神の収縮・自己撤退(自己限定)」という明け渡しの創造論が出て来たわけですが、これにも形而上学的思弁的矛盾があります。Tで引用したモルトマン的創造論について再び、考えてみます。
「ドイツのプロテスタント神学者ユルゲン・モルトマン(1926〜)は、『創造における神』(1985年、邦訳1991年)で、ユダヤ教のカバラ思想を援用して、こう考えました。「神はこの世界に満ち満ちていたが、その神が自発的に収縮をし、空いた隙間に人間の世界ができた。」
(〜http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2013/04/post-54.html
ちなみにモルトマンは、プロセス神学の創造論については「伝統的な『無から創造』ではなく、『混沌から秩序への創造』であると解」したとのこと(〜芦名定道氏の論文「ホワイトヘッドとキリスト教思想 ──プロセス神学の評価を中心に──」) 。
モルトマンの主張については、その「世界」自体、「神の収縮」によって生じたのではないのか?という疑問が生じます。「満ち満ちていた」といっても物理的には際限があるわけで、言わば枠が決まっているので、神殿の外壁のように原初から「神」と共に存在していたというわけでもないでしょう。つまり「神」という存在が人格的当体と、その容れ物である非人格的物体との複合体として存在しているのでなければ、あるいはハートショーンのように「創る神と包括的な宇宙とは一つの神であると考える」(→「聖書神体論と汎在神論」の喜田川信著『神・キリスト・悪』からの引用を参照)でもしなければ、「神」が収縮したところで「空いた隙間」などというものは出てこないのです。仮にそのハートショーンの考え方をとるとしても、喜田川氏の「もしそのように創る神と宇宙とは一つの神だとするなら、汎神論(pantheism)と万有在神論(panentheism)との区別を明確にすることが出来るのであろうか。またそこで真の意味の創造をいうことが出来るのであろうか。」という疑問というか批判が生じます。
だから、神の収縮にともなって世界ないしは宇宙が創造(というか生成)されたなどというのは思弁中の思弁で意味をなさないのです。なぜなら、その世界ないしは宇宙の成り立つ「場」がそもそも「無い」からです。それは「無からの創造」ではなく「創造が無い」ということです。「神」が自発的に「収縮」することによってそこに「空間」が出来るとするなら、前述のように「神の体」が、人格的(=非物質的)な内部と非人格的(=物質的)な外部との二重構造になっているとでも考えない限り、存在論(というか形而上学的思弁)ではアポリアを乗り越えられないということになります。つまり、聖書の啓示はそもそも存在論的にだけ考えても行き詰まるということです。

ハートショーンの(喜田川氏いわく)「創る神と包括的な宇宙とは一つの神である」といった考え方をみて想起されるのは、原理講論の所謂「二性性相」というドグマを展開した神観です。本来なら、カルト宗教、それも反社会的団体としてオウム真理教の先駆け的存在としてマスコミでは悪名高い「統一教会=統一協会」の教理などを自分のブログで参考にするなどということはあり得ないのですが、基本的には相手がどのような団体であれ、その内容に対して是々非々で選択するという方針なので、あえて引用します。
<神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。神が、被造世界の中心である人間を、神の形状である(創一・27)と言われた理由もここにある。したがって、被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。(中略)以上の論述によって、被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象であることが分かった。>(〜第一章第一節)
「二性性相」とは、「存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。そして、その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたものです。したがって、内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。」という独断に基づき、「内性」を「性相」、「外形」を「形状」と言います。「外形」が「目に見える何らかのかたちとして現れている」というのは当たり前のことですが、何故、「内性と性相」と呼ばず「二性性相」と呼ぶのか?と言うと、、「性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえる」からだそうです。人間の場合は「心」が「性相」で「体」が「形状」ということになるわけで、人は「体」という「外形」と「心」という「内性」とからできていて、見える「体」は見えないその「心」に似ているのだそうです。すなわち、「心」にも形があり、「体」はその心に似て、ある形をもつようになるとのこと。それが観相や手相など、外見から心や運命を判断できるといった話に展開されてゆくと俄かに胡散臭くなってきます。まさに霊感商法の理屈につながるのではないかと思われます。人を外見で判断してはならない、というのが世の中の常識であり、原理講論は非常識を教えています。このように、あらゆる存在に性相と形状の相対的関係があるというのが原理講論の「二性性相」です。
広氏は、原理講論とプロセス神学とを比較し、「『プロセス神学』の神観は、統一原理の性相と形状(心と体)論と同様に、神が形状(体)をもつがゆえに、被造世界から影響を受けることができるとの見解でありますが、既に述べてきたように、神が内部に既に“愛の構造”をもっており、それを“実体化するために、被造世界を造られた”のだという観点については、残念ながら言及されていないようです。」と述べています(〜「広神学研究所」の「【比較神論16】」)。プロセス神学では「神が形状(体)をもつがゆえに、被造世界から影響を受けることができるとの見解」でしょうか?もしそうなら、プロセス神学における「神の形状(体)」とは具体的にはどのようなことなのでしょうか?いずれにしても、「神」の「全能」や「絶対」を否定して「有限の神」を説く神学は、聖書的根拠があるとは言えません。形而上学的思弁としてはいかに良く出来た理論でも、要は聖書的根拠が稀薄ではダメです。勝負はあくまでも聖書という土俵の中であり、聖書から示されない「神」は信仰の対象にはならない、これは私のように生得的に信仰を与えられている者にとっては「縁」であり、何故無しの公理なのです。その点で統一教会の教義もプロセス神学の教義も同じく否定し去るべきものです。

プロセス神学の神観の要点を概観するために有用な参考資料は、本多峰子さんの「プロセス神学の神義論」というレポートです。http://ci.nii.ac.jp/naid/110007172806
ホワイトヘッドの神観では、「神を二極性で捕らえており、神自身の中にはこの世に現実化することによってこの世の生成のプロセスにかかわり、影響を受ける部分、世界の諸事実を自己のうちに取り込み、結合 し、諸事実を変質させる部分とともに、理念的な、絶対的な部分があって、その部分は変わ らないように理解されている。」とのことですが、それと原理講論における「二性性相」と関係があるのかどうか・・・。
また、ハーツホーンの場合、「強制的な絶対的支配力を神に認めない彼は、『神の力を制限しようとするつもりか?』という攻撃を予想し、自分の考えは、神の力が何か真の理想に及ばないというような意味で、神の力を制限するようなものではまったくないと、強調している」とのことですが、そのように受けとめられても仕方のないような表現ではないかと思われます。何にせよ、「神」を人間の側での神義論的感情から有限化し相対化する神学は、私自身がまったくなじめません。啓示認識においては「神」の自己限定なしにはあり得ないので、これを認め得るまでであり、「神」の本質的な事柄に制限をかけるような考え方は「反・聖書的」であろうと思います。

それにしても被造世界が神の「心」の形を具現した「体」である、といった理屈は、かなり楽観的であり、また、統一教会の関係者でさえ、「『統一原理』は、西洋的、存在論の基本である『精神と物質』あるいは『唯心論と唯物論』の止揚統一問題に関しては、かなり力を入れて論じてはいますが(特に「勝共理論」等で…)、『キリスト教』と『仏教』、あるいは『一神教』と『多神教』、『超越神』と『内在神(汎神論)』といった、“東西の宗教統一”に欠かせない『本体論(神論)』の止揚統一問題に関しては、決して十分な論述がなされているとは言えません。」と告白せざるを得ないように(〜「広研神学研究所」 http://hiroken2015.blog.fc2.com/blog-category-2.html)、すくなくとも聖書に基づく限り、「被造物はすべて、・・・神の実体対象である」というのは無謀なる主張です。そもそも、、「創世記一章27節に『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された』と記録されているみ言を見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明らかに分かるのである。」ということからして誤解と独断にすぎず、「すなわち、神のかたちに創造し」までの部分と、「男と女とに創造された」とを一緒くたにしてはダメで、「男と女に創造」したのは「神」が「自分のかたちに人を創造」したことの結果ではないのです。ところが、カール・バルトは「人間における神の像とは、人間が男と女とに造られたことを言い、それは神自身の本性の中で起こる共同と共存の関係すなわち三位一体という原型的関係を模写し繰返したものにほかならない」(『キリスト教大辞典』226頁)などと解釈したため、これが却って統一教会の「二性性相」に悪用されてしまっています。バルト神学というのはいろんな意味で実に困ったものなのです。
http://ucqa.jp/archives/74

そして統一教会の解釈として更におかしいのは、創世記1章27節だけを見て、26節の神の言葉を無視していることです。口語訳では訳出されませんが、原文では「かたち(ツェレム)」だけではなく「デムート(似姿)」という言葉があるので(・・・その解釈の議論については関根清三著『旧約聖書の思想』67頁以下参照)、人間が創造主の「形状」だと言ってもそのものではなく似せて造られているだけで本体とは別なのです。だから被造物が「神」の「体」などとは言えません。被造物が神の性質を象徴的に映現しているということは言えても、被造物が「神」の「形状」だというわけではないし、新約聖書では「神のかたち」は「キリスト」であると言われています。それは彼が被造物ではないとする前提にもとづいています。被造物はけっして「神」の形状ではあり得ないのです。あくまでもその「神のかたち」に似せて造られているというだけです。そこに聖書における「神」と「人」との「不可同・不可逆」の厳然たる区別があります。そして「不可分」の関係は、創造主である「神」が被造物なしには存在し得ないからということではなく、あくまでも一方的な「神の恵み」なのです。「神は絶対者でありながら被造物との関わりの中で生きることにより、自らを相対化したのだ。」(〜魚谷俊輔著『神学論争と統一原理の世界』〔光言社〕第一章 2 http://suotani.com/archives/845)とは言われていますが、聖書に立つ以上は、神の「自己限定」あるいは神の「自己相対化」と神の「有限性」あるいは神の「相対性」とは区別されなければなりません。

そもそもローマ1章20節の文言を「被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたもの」だと述べていますが、キリスト教神学では「自然啓示=一般啓示」といわれるものであり、それは「実体」といった表現によるものではなく、自分なりの理解では「象徴」です。自然啓示は自然現象に「神」の存在(の属性)が象徴的に現わされることであり、キリスト教のプロテスタント、特にカール・バルトにおいて「神」の「実体」の啓示といえばイエス・キリストということになりますが、私はこれを歴史の次元では認めていません。あくまでも神話の物語として受け入れるのです。

「神の体」に関しては、アダムが「神の実体」というだけでなく逆にして「実体の神」とまで言われています。
<アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。実体をかぶった、神様の体で造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには実体の体がなければなりません。それがあってこそ見たり聞いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダムだというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。それゆえアダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神様の妻として創造されたのです。>
http://divineprinciple.hatenablog.com/entry/2015/08/22/152228

<神様はどうしてアダムとエバのような形を必要とするのでしょうか。万物は形状的な形をもっていますが、神様は無形の存在です。神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。そのような方がどんな標準的な形を形成し、形体を現したとしても実体をもった万物はその神様に直接主管されません。ですから実体をもった被造世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がなければならないのです。神様は地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長や様々な形体をもった実体、そして無形の実体までも主管するにはその中心的タイプ、すなわち形状が必要です。それで神様はアダムを創造されたのです。
アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。
神様はなぜアダムとエバを造られたのでしょうか。神様は無形でいらっしゃる方なので、実体の形状をもった父母になれなければ形状の子女を愛することができないので、体を着るためなのです。アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。三つ目は、神様は中心軸をもった垂直の父で面積がないので、面をもとうということです。
霊界に行っても神様を見ることができません。神様は見えないのです。皆さん、力が見えるでしょうか、力が見えますか。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることができません。体がないのです。ですから実体世界を指導して主管するためには実体をもたなければならないのです。神様はどのような神様ですか。アダムが堕落しないで完成して地上で暮らし、天上に行くようになれば、アダムの形状をもった神様になるのです。それで見えない神様と見えるアダムが一つになるのです。そのようになればアダムが「ははは」と笑うのは神様が「ははは」と笑うことになるので、それはすなわち宇宙が「ははは」と笑うことだというのです。何のことか分かりましたか。
無形の神としていらっしゃる神様では、この宇宙を相手に刺激を感じることができないのです。心自体だけをもってしては、どんなに刺激しても感動しないのです。無形では、同じなので刺激が来ないのです。これが互いに相反するもの、熱いお湯と冷水が合わされば爆発するでしょう。そのような刺激が必要だというのです。
神様は霊界でも無形です。形がありません。それで姿をもった人間の父母になるためには、姿をもたなければ中心になることができないのです。
神様の最後の創造目的は体をもつことです。実体世界を主管するためには無形の神様では駄目なので万民の父母として体をもって現れなければならないのです。感覚器官をもって刺激を感じることができる主体と対象として立つためには、体を着なければなりません。
実体世界を造られた神様が無形であっては、実体世界を支配することはできません。それで体が必要なのです。(アダム・エバが)創造された目的は、神様も実体をもって実体の父母になるためです。その実体がアダム、エバです。>
http://furuta65.fc2web.com/001/makotono_kami/001_makotono_kamisama.html

このように統一原理の神観は、「神の全能」を否定する有限神観であり、あまりにもナンセンスと一笑に付すだけのことではありますが、同時にプロセス神学との共通性を見ることができます。しかしこれを反転させ、「神の自己限定」という観点から聖書的に説くことができるとすれば、「神」は霊体であるとは言っても、およそ「体」ということを言い、実体性を求める以上、それは物質性を完全に排除できないのではないかという考えが生じてきます。伝統的キリスト教の汎神論に対する過剰なる忌避感に疑問が呈されるのです。その物質性、肉体を「神」はイエス・キリストのそれとして現されたのだと思います。だからアダムを「実体をもった神様」だと言うくらいなら、キリストをそう言う方がまだ聖書的だと言えるでしょう。しかし私はキリストを実体的な意味で「神」とみなすことはできません。あくまでも「神の独り子」であり、「神」はその復活体に御自身の実体性を示されたのだと思います。否、実体性ではなく関係性なのです。実体性はやはり被造物に託されたとは言いきれません。それは汎神論に近づきます。「神」の「体」は「神の国」における「国(の)体」であると見ることも可能でしょう。伝統的キリスト教に欠けていたこうした発想は、批判的にですが、考察してみる価値はあると思います。

ちなみにペトロ・ネメシェギ司祭は、「統一教会の教説についての考察」という論文で(〜『カトリック研究』第47号)次のような批判をしています。なお、この論文は統一教会の神学者である魚谷俊輔氏がその著書『神学論争と統一原理の世界』の「プロローグ」で、「私が今までに出合ったキリスト教による『統一原理』批判の中で、唯一まじめな神学的批判だと評価できた」と言われているものです。

<(一) 陰陽説。文鮮明は朝鮮半島に生まれた人であり、現代で儒教の思想の強い影響を受けている唯一の民族はまさに韓民族である。文鮮明は、古代中国の易占いの書物『易経』に述べられ、中世の儒者によってさらに発展させられた陰陽説をこの理由で受け継いだのである。すべての存在が、性的に解釈されている二つの要素から成っているという「二性性相」の思想は、この陰陽説に由来するものであり、『原理講論』の思想全体の骨組になっているのである。
(二) 一神教。この要素は、文鮮明が幼年時代から受けたキリスト教的教育に由来するものである。彼は長老教会の家庭に生まれ育ったものであり、そこで受けた教育のために、創造主である人格神の存在は彼にとって当り前の事実である。『原理講論』において神の存在の証明は語られていない。善であり、義である神の存在と、その神による摂理は、証明を要しないこととして常に前提されている。もちろん、唯一の神についてのユダヤ教・キリスト教の教えを中国の陰陽思想に結びつけることに、かなりの無理がある。それによって、キリスト教の神概念とは異なる神概念が生じてしまったということについては、後に詳しく述べるつもりである。(中略)
創造原理
神による世界創造に関する『原理講論』の教えの中に、キリスト教に由来する正しい要素は多々見いだされる。唯一の神、義であり善である神が存在し、この神が世界を創造し、摂理によって世界を導く。神の創造的、救済的な意志に、全宇宙の意義が由来する。神は、自分が創造した人間に自由意志を与え、神と一致するようにという崇高な使命を人間に与えた。(中略)
以上の教えは、旧新約聖書およびキリスト教の伝統に基づく正しいものである。しかし、それを具体的に述べるに当って、『原理講論』のとらえ方は、キリスト教のそれとは大いに違うのである。一つの重大な相違は、陰陽説を神に適用していることによる。古代中国の陰陽説の元の意味について様々の学説があるが、中世からそれは汎神論的な意味で理解されるようになった。それにもかかわらず、『原理講論』は万物が陰と陽という二つの要素から成り立つという説をただ、宇宙にだけではなく神にもあてはめる。そこで、「神も永遠性を持つために、二性性相としていまし給う」と言われており、更に、「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられる」と言われているのである。さらにこの神が自分の幸せを、宇宙から得ているとされている。「神もその実体対象からくる刺激によって、それ〔神〕自身の本性相と本形状を相対的に感ずるとき、はじめて喜びに満たされる」。以上の説明は『原理講論』に固有な用語を用いているので難解であるが、それは、キリスト教神学と哲学が初めから支持してきた神の絶対的な超越性、独立、自己充足性、純一性、自由についての教説とは一致しないと思われる。『原理講論』は、神の絶対的な超越性に十分に注目していない。だからこそ、被造世界に見られる様々の特徴をそのまま神に当てはめるのである。神と世界の間に類似があるということは、伝統的なキリスト教哲学・神学の主張であるが、しかしそれはまさに類似であって、同一性ではないのである。すでに第四ラテラノ公会議(一二一五年)がいみじくも述べたとおり、「創造主と被造物の間の何らかの類似を指摘するときに、両者の間の相違の方がはるかに大きいということをも同時に指摘しなければならない」のである。神に二性性相があると主張し、しかもそれを性的にとらえるということは、きわめて危険な思想である。(中略)さらに神は、この世から来る刺激によって、はじめて喜びに満たされるという考えも、キリスト教の神概念とは、大いに違うのである。確かに神が自由な愛をもって世を創造し、この世にあるもの、特に人間を熱烈に愛しており、その愛のゆえに人間を捜し求め、失われがちな人間を見いだしたときに大いなる喜びを感じるということは聖書によって教えられている。しかし、神がその自由な創造的な愛のゆえにその愛の対象に対して一種の依存を引き受けたということを認めることができても、神の永遠の幸せがこの世なしにはありえず、初めてこの世から得られるようなものであると言ってはならない。そのように主張する思想は、キリスト教的な神信仰ではなく、神を進化するもののように考える汎神論の系統に属するものである。世界の目的の実現に関して、『原理講論』に、授受作用について言われていることは評価すべき点である。(中略)キリスト教によれば、三位一体の神のいのちは、愛における授受によって成り立つものであり、世界創造も、神が自分の存在の参与を与えることによって成り立ち、恵みの世界も神の自己譲渡によって実現し、また人は自らを惜しみなく神に与え、他の人々に与えることによって、自分の使命を全うする。キリスト教のこの教えが統一教会によっても教えられており、惜しみなき愛の姿勢、我心なき理想主義が強調されているということこそ、多くの純粋な若者をこの教会にひきつける力になっている。しかし、愛についての『原理講論』の教えを評価しながらも、その愛の実施に関して多くの問題が起っているということをも指摘しなければならない。>

ネメシェギ司祭は、原理講論の中でもキリスト教と相通ずる点は認めた上で批判しているので、統一教会の神学者が自分たちに反対の立場であるにもかかわらずネメシェギ司祭の上記引用の論文に一定の評価を与えている理由がわかります。そして、ネメシェギ司祭の「神の永遠の幸せがこの世なしにはありえず、初めてこの世から得られるようなものであると言ってはならない」という指摘は、前に私が、「神の『自己限定』を神の『有限性』と思い違いしてはなりません。」と述べたことと関連しています。ネメシェギ司祭の批判に甘さを感じるのは、「キリスト教によれば、三位一体の神のいのちは、愛における授受によって成り立つものであり」云々と述べていますが、統一教会における「三位一体」は、イエスの神性は認めるも「神」と「同一本質」であることは否定することを前提として成り立っていること(「原理講論」第七章第二節〔二〕参照)を批判するまでは及んでいないことです。もっとも、統一教会のキリスト論は正統的キリスト論よりも小田切信男氏やエホバの証人のそれに近いと感じます。

<アウグスティヌスの「告白」は、「赤裸々な」告白と懺悔によって有名だが、実のところ「告白」の部分は第十巻までで、残りの三巻分は聖書の「創世紀」解釈に費やされている(パッチモンの翻訳などではこの部分が省略されているからだまされないように)。「創世紀」の冒頭部分を引き延ばした解釈だけに、実に様々な問題が長々と論じられているが、後世への影響の点でも最も重要な問題は、創造の材料に関する議論である。「告白」の部分でも述べられているように、アウグスティヌスはキリスト教に改宗する前は、マニ教の影響を受けていた。マニ教は、善悪二元論であって、善なる神が世界の善を産み出し、悪なる神が世界における害悪を産み出すことになっている。つまり、世界を構成している材料は、善悪二神の中にあったものである。こうした考えは、善悪二神論の点では唯一神教たるキリスト背反することは勿論だが、アウグスティヌス以前のキリスト教徒たち(テオフィロス、ヒラリウスら)の間では、世界の材料は神の中にあるとか、あるいは、どこかから持ってこられるのだとする説があった。こうした説を批判し、マニ教を乗り越えて、「無からの創造」の立場を明確に打ち出したのがアウグスティヌスだったのである。世界は神「によって」作られたのであって、神「から」(神を材料として)作られたのではない。これ以後、キリスト教の創造説の決定版として扱われることになる「虚無からの創造」説は、実に様々な含意を持つ。
1)神と世界との関係について:世界の材料が神の中に予めあることになれば、これは神と世界との連続性を主張することになる、つまり、神の超越性を否定してしまうことになる(→汎神論=無神論)。逆に、無からの創造説によれば、神の超越性が保持できる。
あるいは、2)創造以前の世界と時間について:創造以前に何等かの材料があったということは、要するに世界が今のように形成される以前から世界(少なくともその材料)は存在したということになる。これは世界永遠説であり、キリスト教とギリシャ哲学との最大の争点の一つとなった(→トマス対シゲルス)。
また、3)神について:創造以前に何らかの存在があったということは、神の他に神と並ぶ存在を認めることになり、神の絶対性と無限性を否定することになる。キリスト教では、神は唯一、無限、全能、絶対であり、その無限なる力は世界創造の際に最もよく発揮されるのである。

プラトンの「ティマイオス」は、幻のアトランティス大陸の伝説に触れたことでも有名だが、デミウルゴスによる世界創造について触れている点でも知られる。しかし、このデミウルゴスはキリスト教的な創造者、造物主としての神とは全く違っている。勿論、礼拝の対象となるような神ではない。
まず、デミウルゴスには、世界を作る材料ないし場所が与えられている。これをコーラーと呼んでいる。また、その材料に形を与えるようなサンプルも予めある。即ちイデアのことである。キリスト教が忌み嫌った世界の永遠だが、プラトンは勿論そんなことに御構い無しである。そもそも、プラトンが求めたのは永遠・不変なるものとしてのイデアなのであるから。そして創造された世界は、イデアの写しとして時間の中にあり、有限で生成消滅する世界、死すべきものたちの世界である。こうした材料と設計図が予め与えられている神=デミウルゴスの仕事は、むしろ建築家の仕事のである。したがって、言わば職人としての神である。これに対して、キリスト教の神は、芸術家としての神とでも呼ぶべきものである(→ヒポクラテス対デューラー)。あるいはまた、デミウルゴスと世界との関係が、制作者と制作物の関係であるのに対して、キリスト教の神と世界との関係は、父と子との関係である。デミウルゴスの場合に礼拝が問題にならないのは、世界との関係が人格的なものでないからなのである。[プラトン的な神概念(ギリシャ)と、アウグスティヌス的な神概念(ヘブライズム)の中間形態をなすのが、新プラトン主義の大物プロティノスの考え(ヘレニズム)である(→アリストテレス対プロティノス)。アウグスティヌスがマニ教の次にかぶれたのが新プラトン主義だった。]>
(〜http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card45906.html

<ギリシャ人にとっては、宇宙の根源にはカオスのような物質が充満していて、それに神あるいはデミウルゴスが秩序を与えて今日のような世界を作り上げた。プラトンが宇宙創造を描いているときにも、初源的な物質に神が形相を付与したのだということになっている。アリストテレスにおいても同様である。彼らギリシャ人にとっては、神というものは創造主であるというより、技工のようなものだったのである。これに対してアウグスティヌスは、世界はなにかある物質から作られたのではなく、無から作られたのだとする聖書の記述を擁護する。神は秩序や形相といったものばかりでなく、物質そのものをも無からつくりだした、これがアウグスティヌスの見解なのである。するとむつかしい問題が生じてくる。もしそうであるなら、世界は何故もっと昔に作られなかったのであるか、神が世界の外側にいるのだとすれば、世界創造以前には、時間はどのように流れていたのか、といった疑問である。そもそもこの世界というものを除外して、神の存在がありうるだろうか。アウグスティヌスは、時間というものは世界が創造されたときに創造されたのだと考える。なぜなら神は時間を超越した存在であり、神にとっては永遠の現在があるばかりだからである。神は世界や時間を創造する前から存在していたわけではない。そうだとすれば、神は時間の流れの中にいることになってしまう。そうではなく、神は時間の流れの外側に立っているのだ。(中略)アウグスティヌスは三つの時間があるという。過去の事物の現在と、現在の事物の現在と、未来の事物の現在がそれである。過去の事物の現在とは記憶であり、現在の事物の現在とは感覚であり、未来の事物の現在とは予期である。このように時間とは、人間の意識の随伴者なのであるから、それは人間が創造されたことによって始めて生じてきたのだ。創造された存在がなければ時間もありえないのであり、世界創造以前のことを問題にするのは馬鹿げたことである。それはまた世界や時間を創造した神に対する冒涜でもある。これがアウグスティヌスの結論であった。この見解は、現代の相対性理論にも通ずるところがある。現代の物理学によれば、宇宙はビッグバンによって始まったことになっている。人々の中には、ではこのビッグバンが生じる以前に、宇宙はどのようであったかを問題にするものがいる。それは神による世界創造以前のことを疑問に思った古代人と同じ心情を表わしている。だが現代の物理学も、アウグスティヌスと同じように、ビッグバン以前の宇宙について、時間や空間を問題にするのはナンセンスだといっている。時間や空間は宇宙というものの外側にあるものではなく、宇宙そのものが自らの中から分泌するものだというのである。宇宙はいまでも膨張していると考えられるが、その膨張に伴って、宇宙自らが新しい空間を創造し、したがって新しい時間も生まれている。アウグスティヌスが神から授かった豊かな想像力は、時空を超えてひらめき続けているようである。>(〜http://philosophy.hix05.com/Medieval/medieval02.html

これらの引用先は、哲学および神学的なレベルがどの程度の人によるものかはまったくわかりませんが、内容的にはよくまとめられていると思われるので参考にさせてもらいました。

不健全な神観による創造論は、プロセス神学のみならず野呂芳男氏が影響を受けたネルス・フェレーの言説にもみられます。
<フェレーによれば一存在としての実体的な神を主張するのが有神論であるが、キリネト教は有神論ではない。神は愛で、人格的(personal)ではあるが一人格(a person)ではないのである。ところで、存在そのものというような哲学的に究極的なものとしてティリッヒの如く神を考えることは、フェレーによれば、キリスト教信仰が二つの究極的なもの、即ち、新約聖書の霊であり愛であり父である生ける神と、存在論的に究極的なものたる存在そのものとを所有することになる。ティリッヒは、新約聖書の神と存在そのものとが同じものであると主張するが、フェレーは、どちらかが他に従属しない訳には行かないとし、むしろ、新約の生ける神が創造の業の中で、存在そのものの働きを設定したと考えているようである。フェレーによれば、生ける神は空間のどこにもいないし、何ものでもない。またプロセス神学の言う神も、神がプロセスに影響するばかりでなく、プロセスが神に影響を及ばし、神の超越性が十分に保たれているとは言い難いので、聖書の生ける神ではない(35)。聖書の神は人格的愛の霊として、超越でありつつ歴史に内在し、歴史をすべての被造物の救いという目的のための愛の訓練の場として導いて行くのである(36)。フェレーのように考えれば、キリスト教の創造の教理がティリッヒにおいてはもち得なかった重要性をもつてくる。アルタイザーやティリッヒと違った次のような私なりの神学的構図が、フェレーのような考えを土台にして創作されてくるのではないだろうか。神が天地を創造されたということは、神と被造物の根源的な区別を意味する。そして、現実の世界は、この区別された両者の混在である。この地上で愛の訓練を経たものは、やがて神の中へ無となって、また、神も我々の中へ無となって消滅する。但し、この消滅は、神の消滅(死)の場合には、それによって神の愛の充満さが更に輝きわたるようなものであるし、我々の場合には、個の個たることや、個が個として体験したところのものを豊かに保存してくれるようなものであろう。現実の世界は、区別されねばならない神と創造物との混在であると主張することによって、愛の訓練の場たる歴史内で犯す人間の罪は、また、人間の責任とは全く言い難い、しかも、人間から存在の喜びを奪い取る不条理も、――ティリッヒがこれらを非存在から由来するとなし、非存在も結局は存在そのものに根拠をもつと言ったのとは違って――必ずしも神から由来したものと見做さなくてすむ。愛である神の創造した現実にどうして罪や悪や不条理が存在するのかという疑問は相変らず残るにしても、同一性の神学がどうしても逃げ得ない結論、つまり、(悲惨と不条理に満ちた)現実は神の遊びとたわむれにすぎないという残酷な結論を避けることができる。更に、もしも我々がフェレーと同じように、歴史の中で神が我々を愛のために訓練して下さるということを信じ得るならば、不条理さえも神が我々の愛の訓練の道具として用いておられるという事実は、――何故そんな道具を神が用いなければならないのか、ということは別にして――認め得るのである。そして、ティリッヒの言うような意味での同一性や参与がなくても、不条理の中でさえもそれを人間のために愛の訓練の道具にしようとして、神が混在していること――そういう意味で、神が不条理と同一になっていること――を我々が信じるなら、神と創造物との区別の原理に立っていても、この世界が神を信じる我々にとってよそよそしいものとなる必要がない。この世界のどこででも、罪や死や悪や不条理の中ででも、我々は愛の神と出会うのである。>(〜http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/1595/1978-kaminoshitokami.html
なお、「無からの創造」について野呂氏は下記のように述べています。
<「創世記」の創造の物語から、後の教会が主張するような「無からの創造」(creatio ex nihilo)という教理が作られたのは、これも自然神学によってである。「創世記」の1章の創造物語によると、神が創造を始められた時に、地表は混沌状態にあり、それを神は、大空の上の水と地表上の水とに分け、地表の水を陸地と区別することによって、秩序を作り上げられたのである。後の教会が主張した「無からの創造」は「創世記」の創造物語にはない。つまり、「創造する」という言葉は、われわれが聖典としている聖書の中では、後の教会が意味させようとしたものを意味していないのである。経外典である「マカバイ記二」(7:23)にある記述、「人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は……」が、後の教会が主張したような仕方で創造が意味された最初であるとししばしば言われてきたが、これもはっきりしない。要するに、「無からの創造」は、創造を神と、それに敵対する力との二元論的争いとして考えていたグノーシス主義に対して、一切が神の支配下にあるとする一元論的正統主義が、全てを神が支配するなら、天地の全てが何もないところから神によって造られたに違いないと理性的に類推したものであって、まさに自然神学的操作の結果出てきたものなのである。そうすると、私のようにプラトンに倣って、創造に当たって神に敵対する無の力を想定している者にとっては、むしろグノーシス主義の二元論の立場の方が自分に近いと思わざるを得ず、正統主義的神学と同じ「無からの創造」という言葉を私が使っていても、その意味が正統主義のそれとは違うことを主張せざるを得ない。従って、私には創造論に関して別の仕方での――既に述べたような――自然神学が当然存在していることとなる。>(〜http://www.geocities.jp/yoshionoro/1994minsyusyukyo.html

野呂氏の師の一人、エドウィン・ルイスの「キリスト教的プラトン主義」における創造論は次のとおり。
<ルイス教授にとってはバルトの目指す、啓示のみに基礎付けられた神学などは、人間が神学行為の当事者である以上、不可能な事がらなのである。ルイス教授による現実の三元論的な理解、創造者(Creator)なる神が原料(Non-Creativity)を場にして創造行為を展開するが、しかし、創造行為の中には神といえども排除できない仕方で、もう一つの原理である反創造者、あるいは破壊者(Discreativity)の働きが介入してくるとの理解も、その源をプラトン哲学にまで遡り得るものであろう。プラトンの諸著作の中でもその神概念は、研究者たちの間でそれが何を意味するものであるかが論議されて決着がつかないものの一つであるようだが、プラトンにとっての神概念が、単にイデア界に属する種々の観念が持つ動的性格の神話的表現に過ぎないものであると見るのは、やはり無理であろう。プラトンにとっても神は人格的存在であったと見るのが至当であろう。神の存在との関連で、プラトンにとっていつも問題となったのは、この世における悪の存在であった。これに関してもプラトンは決して一貫した答えを与えてはくれない。しかし、大体のところプラトンの答えは、神が、神とは別に存在するイデア界の諸観念を、物質に刻印してこの世界の諸物を造り上げた折りに、物質がその刻印に反抗したが故に、この世界は不完全になっている、ということであった。この不完全さが悪であるという訳である。(中略)この世には神に敵対する悪の世界霊魂が存在し、神はこの、ある程度人格的な悪の原理と絶えず闘う。ここにプラトンに対するゾロアスター教の二元論の影響を見る研究者もいる。恐らくこのように多様に展開されたプラトンの神観に刺激されながら、前述したルイス教授の三元論は成立したものであろうが、勿論、聖書に表されている神観がルイス教授の神観の核をなしていることは疑い得ない。>(野呂芳男著『キリスト教の本質』p40〜42)

野呂氏はさらに「無からの創造」に関して次のように述べています。
<通常キリスト教神学での創造論の一事項として取り扱われる「無からの創造」という真理は、私にとっては、無という素材からの抵抗と戦いながら神が天地万有の創造に参加されたことを表現する。このように無は、私の通俗的なプラトン主義においては、愛に基づいて創造しようとする神の働きに抵抗するのである。この無の抵抗を私は不条理と呼ぶのであるが、私は歴史上の通俗的なプラトン主義と同じように、われわれが愛の神が作り上げたものとはどうしても思えないような、宇宙の中に存在する悲惨な出来事、神学が伝統的に悪と呼んできたものの原因がこの無の抵抗にあると思っているのである。>(同上書、p48)

とにかく野呂氏や彼が支持する神学者は、神の絶対性を否定する立場なので、その思想自体はあまり参考にはなりません。


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