聖書の御神体

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zoom RSS 聖書神体論と汎在神論

<<   作成日時 : 2013/12/31 23:57   >>

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聖書における「汎在神論=万有在神論」については、関根正雄氏の次のような指摘があります。
<ユダヤ人のネエルが『預言の精髄』で、パンテイスム(汎神論)に対してパナンテイスム(Panentheisme)といっているが、この万有在神論という考え方は、西田幾多郎の「場所的論理と宗教的世界観」の中心的立場でもある。ここでは哲学的問題には立ち入らないが、万有在神論というのは自然物そのものが神だというのではなく、自然という、神とはぜんぜん違ったものの中に神性が宿ることといってよいであろう。「出エジプト記」第三章の燃える茨の中に神が現われたというのは、自然物を介しての神の顕現でパナンテイスム的といってよいであろう。こういう自然物の中にも神を認めるというのは、ある特別な感覚であるが、こういう感覚を我々がぜんぜんもたなかったら、モーセのような人の信仰の原初的な感覚に近づくことはできず、ただ物語として読み過ごしてしまうか、あるいはせいぜい、これは一種の汎神論ではないかということになるであろう。けれどもそうではなく、物質をも生かす神の霊的リアリティの感覚の問題なのである。(中略)旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、そういう見方があるために、聖書の神は日本人に合わないとか、もっと女性的な要素を入れなければならないとか、いろいろな見解が出てくる。それは結局旧約聖書を厳密に読まないからである。(中略)旧約の神はすべての自然物の中に来り給うし、我々の体の中にも来り給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている。>(『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p86〜87)
関根氏の上記のような「汎在神論=万有在神論」理解は哲学的には正確かどうかはわかりません。自然の中に神性が宿るという「内在」の面だけではなく、むしろそれよりも自然が神の内に存在するという使徒17:28のギリシャ的な理解もあるからです。神が「我々の体の中にも来り給う」という表現も誤解を招くおそれがあると思います。神を物体(=固体、気体、液体)的存在としてイメージさせるからです。「我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている」というのも、「越えて」は「超えて」と表記すべきだし、そもそも旧約聖書の随所で、また新約聖書においても我々の中に宿るとされているのは「神」ではなく「神の霊=聖霊」です。この違いは大きいです。JWと同じく、「神」は遍在しないというのが私の所信です。出エジプト記3章の「燃える茨」の現象も、岩波版の注で指摘されているとおり2節に出て来る「主(=ヤハウェ)の使い=神の使い」の顕現なのであって、汎在神論とは関係ないと思います。ところで「神の使い」について関根氏は次のように述べています。
<このヤハウェの使いというのは何か、これは「創世記」以下「士師記」「列王紀」その他に何回も出てくるが、従来、神の使いをヤハウェの顕現形態だとか神の受肉の天使という見方で片づける。こういうところにも私は従来の合理化、概念化の傾向を見るのである。私はフォン・ラートにいろいろな意味で負うところが多いが、神の使いについてのフォン・ラートの解釈も合理化以外のなにものでもないと思う。私は神の使いを、すぐあとで出てくる神の顔と並べて考え、神のやさしさを表わす文学的、思想的な表現だと思うのである。神の使いとは神の顕現形態をいうのだとヴォルフ以来多くの人が見るが、少なくもここでテキストの本当にいおうとしていることはそれだけではなく、金の子牛の出来事でモーセが完全に挫折した、そのモーセを如何に励ますかということが三二章終わりから三三章にわたって問題になっているのである。そういうところに出てくるのが神の使いであり、ヤハウェの使いであり、あるいは「わたしの顔が君とともに行く」という慰め深い言葉なのである。そういう箇所をただ合理化してはこまるのである。>(前掲書p127)※関根氏は翻訳では「ヤーヴェ」や「ヤハヴェ」(「ハ」は小文字)を用いていますが、この本では「ヤハウェ」になっています。

聖書における「神の体」を形而上学的に考えると必ずぶつかるのが天地創造の時の「神」についてです。ところで「神の体」を考える前提として、その「神」は何らかの「もの」であって「こと」では無いということがあります。存在論的カテゴリーと認識論的カテゴリーとの違いとでも言えましょうか、とにかく、「神」は「物」ではないが「もの」であるという前提があります。アリストテレスはカテゴリーとして、実体、分量、性質、関係、場所、時間、位置、状態、能動、所動の10を挙げ、実体を最も根源的な「もの」と位置付けています。だからアリストテレスの存在論は実体(=本質)論だとも云われます。「実体」とは「諸々の性質(述語)から自立した主語としての実在」です。存在論は形而上学に含まれます。
プロセス思想の第一人者であるA・N・ホワイトヘッドの形而上学に於いては、「究極的実在」は「実体的な活動力、あるいは活動作用」であり、「もの」(物質)ではなく「こと」(事象)としてとらえられています(〜間瀬啓允氏の論文「ホワイトヘッドにおける神論の形成過程」)。ホワイトヘッドの影響を受けて生まれたのがプロセス神学ですが、上記の点で「神の体」への関心はこの神学には初めから無いのでは?という疑念が生じます。結論的には「汎在神論=万有(内)在神論」(panentheim)で答えられることになります。ちなみに「汎神論」(pantheism)で有名なスピノザはユダヤ教から破門されましたが、彼の思想には「無限実体」という概念がありました。
<『短論文』においても『エチカ』においても、スピノザは先ず「実体」の考察から出発する。彼の説くところによれば、実体とは、それ自身のうちにあるもの、その存在のために他の何ものをも必要としないものである。それは、つまり「自己原因」であるが、彼によると、こうした存在として考えられるものは神以外にはあり得ない。何故ならば、抑々、実体というのは、定義からして、独立、永遠、無限、最高完全、従って唯一でなければならぬからである。そこで、『短論文』においては、「神とは一切が帰せられる実有、各々が自己の類において無限に完全であるような無限数の属性の帰せられる実有である」(11:19)と述べられ、『エチカ』においても、謂わばオウム返しのように、「神とは絶対に無限な実有、言い換えると、各々が永遠無限な本質を表わす無限に多くの属性から成る実体であると思う」(14:45)と語られるのである。神の外には如何なる独立の存在もあり得ないとすれば、神は世界の内在的原因である。言い換えれば、「神すなわち自然」(Deus sive Natura)でなければならない。というのは、神と自然との関係を創造によって規定するならば、神の外に世界が独立に存在することになるからである。事物が神を離れてあるのでも、神が事物の外に超越的にあるのでもない。世界の事物の種々相は全て神を原因とし、その限定として考えられることになる。ところで、神は、無限多数の属性から成る実体と定義されていた。属性というのは、実体の本質を成すものであるから、絶対的に無限で完全な存在である神が無限多数の属性を有ることは当然である。しかし、人間には、それらのうちに二つ、「思惟」と「延長」とが知られているに過ぎない。これらは「自己の類において」無限であり、相互に全く独立であって、夫々神の一面を表わすものと考えられる。神の表われ、神の「様態」と規定される個物の世界は、思惟と延長という二つの属性の変様であるから、従って、思惟と延長の各々に応じて精神界と物質界とが成立することになる。しかし、個々の様態すなわち個的な精神や物体は、実体そのものとは異って、自己原因ではないから、他の個物によって存在や作用に決定されなければならない。つまり、明確な因果の系列が存在すると考えられ、この因果の系列は、究極的には神の本性の必然性から発するものであるから厳格に必然的であり、そのうちには自由、偶然、恣意といったものは何ら存在することは出来ない。自由とか目的という発想は、こうした因果の結び付きを十分に認識しないことから生じる人間の妄想である。神の意志といったものを想定して必然性の把握を避けようとすることを、スピノザは誤謬の原因として強く批判し、「無知の隠れ家」(ignorantiae asylum,14:81)と呼んでいる。右で述べたように、スピノザにおいては神すなわち世界全体なのであるから、神は世界全体を貫く因果の系列の総体と別のものであることは出来ない。そして、神が則って作用する必然性の具体的内容の帰するところが、結局、自然的な「因果と矛盾するものではないことを考えるならば、人格的な神の概念の支配的であった十七世紀の人々によって、スピノザの神が可成り異常なものとして受け取られた事情も理解出来るのである。すなわち、良く知られているように、スピノザは、神を瀆す無神論者、「大欺瞞者」として、約百年もの間、「死せる犬」のように忌み嫌われたのであった。確かに、初めから人格的な要素を完全に排除して説かれるスピノザの神は、彼自身による等置を俟つまでもなく、自然全体あるいは世界全体と呼ばれる方が相応しく、従って、神をテーマとする『短論文』第一部も『エチカ』第一部も、事実上は、人間をも含む世界全体の性格を明らかにする試みに外ならなかったのである。>(〜清水禮子さんの論文「スピノザと神」)
<デカルトも精神、物体と神とを区別して、神は無限実体で、精神と物体は有限実体だとした。しかし、精神と物体は有限ではあっても「実体」なのだ。これに対してスピノザは有限な実体などありえないとして、実体は無限なものだけ、神だけ、一つだけにしたのである。そうなると、精神や物体は実体ではないのだから、一体何なのか、というと、それは様態である。つまり神という唯一の実体の変化したものだ。(中略)デカルトの場合には、精神も物体も実体だったから、神とは区別されていたし、神は無限、精神や物体は有限だという区別もあった。ところがスピノザのように考えると、精神性や物質性は神の本質的な要素なのだから無限でなければならいことになるし、また神そのものが思考するものであり(これはまだよい)、更には神そのものが延長するもの、拡がるものとなってしまい、物質性を持ってしまうことになる。つまり問題は二つだ。物質の本質である拡がりというものは「無限」でありうるのか、ということが一つ。神は物質的なものなのか、ということが一つである。スピノザは両方にイエスと答える。我々が普通に考えている物質は有限なものだ。しかし、そうとしか考えられないのは浅はかであって、その根源には無限な拡がりがあり、それが神の本質を構成している。こうした無限な延長、無限な拡がりという意味でなら、神も物質性を持つ。スピノザは、汎神論だとか神と物質を混同していると非難されたが、それは彼にとっては心外だった。「人々が私の立場は神と自然を同一視する思想に立っていると考えているのは、自然というものを一定の質料あるいは物体と理解しての上のことですから、全然間違いです。」(書簡73)>
(〜http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card62797.html
<スピノザはユダヤ人でしかもユダヤ教会から破門された身だったが、マールブランシュは立派なお坊さんだったのだから。スピノザはデカルトの言う延長を無限なものに拡大し、それを神に持たせた。これによって神は物質的な側面を持つことになった。これはキリスト教では絶対御法度である。神が物質性を持つなんて! 問題は二つだ。まず、延長は「無限」でありうるのか。第二には、神は物質的なものなのか、である(→デカルト対スピノザ体系の変形)。勿論スピノザは両方にイエスと答えるのだが、お坊さんの方は、第二の問題にはノーを言う。マールブランシュは、ここで奇抜なアイディアを持ち出す。無限な延長は神に属する。それは認めよう。しかし、神が物質だとは認めない。ならどうするか、延長から物質性を捨ててしまえ!こうして、物質性の基盤と考えられた「延長」は、マールブランシュでは物質性を排除したものとなる。つまり、「無限な延長」というのは、無限な延長という「もの」ではなくて、無限な延長という「観念」なのだ。神は延長という「もの」を持つのではない、神が持つのは無限な延長の「観念」である。これをマールブランシュは「叡知的延長」と呼んだ。>
(〜http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card63690.html
<スピノザによれば、この世界でただひとつ自己充足的で確実な実体は神のみである。それ以外のすべてのものは、神に依存して存在している。我々人間の精神も、また身体も、そのほかのすべての事象も神に存在の根拠を有している。神は無限の属性をもっていて、その属性の一つ一つの表れが、この世界で我々が個物とかそれについての人間の認識とかいっているものなのだ。(中略)スピノザの説は、人間を含めて宇宙のすべてのものは神の属性の一部が現れたものだという考えに立っている。一種の汎神論といえるだろう。またスピノザは、全体としての神を重んじる余り人間の主体性を極度に軽視したとも受け取られる。とりわけスピノザは精神の自主性を尊重すること甚だ薄かった。そんなところから唯物論者ともいわれた。だがスピノザの神への愛は、どんな宗教家よりも強かったのである。神は我々一人一人にとって外的な信仰の対象ではない。神は我々自身の中にそのままに現れているのであり、したがって我々自身に命を授けてくださっている。有機体の一部が全体あって初めて存在できるように、我々は神が存在の一部なのである。だから我々は神を愛すべき十分な理由がある。精神の最高善とは神についての知識であり、最高の徳とは神を知ることである。こうスピノザはいう。>(〜http://philosophy.hix05.com/Spinoza/spinoza04.god.html
ある意味、聖書的「神体」を西洋哲学史で最初に提示し得た思想家はスピノザだったのかも知れません。それがかなり曲がりなりにではあったとしても・・・です。上記の「神は我々自身の中にそのままに現れているのであり」云々のくだりと使徒行伝17:28の文言との類似性という点だけを見れば「汎神論」というより「汎在神論」であると感じます。但し聖書的「神体」の大前提が「霊=非物質」であることに変わりはありません。
さて、プロセス神学の創造論解釈は、アウグスティヌス以来の創造論、すなわち「神の創造の業を外へと向けられた神の働き」に対して、そもそも全能と遍在の神が「外」を持つという矛盾を指摘し、それが矛盾にならないためには、神ご自身がご自身の中の場所を「明け渡した」、あるいは「ご自身の中へ退去した」といった考え方を要することを示ました。これはユダヤ神秘主義のカバラの影響であり、モルトマンも同様の考えをしています。以下、長くなりますが引用します。
<ハートショーンは、現実に存在するこの世界に悪が存在することを認めます。それにもかかわらず、神の存在が否定されることはないと確信しています。なぜそのような確信ができるのでしょうか。ここで重要なのは、創造に対する視座の転換です。ドイツのプロテスタント神学者ユルゲン・モルトマン(1926〜)は、『創造における神』(1985年、邦訳1991年)で、ユダヤ教のカバラ思想を援用して、こう考えました。「神はこの世界に満ち満ちていたが、その神が自発的に収縮をし、空いた隙間に人間の世界ができた。そこは神が不在の世界なので、人間が何かをして悪を生み出すのは当然であり、それに対して神は何の責任も負っていない。神のやったことは、自己撤退して場を作っただけである。」ここでモルトマンの創造に関する言説を注意深く読み解いていきたいと思います。モルトマンは、「無からの創造」について、こう述べます。〈世界の創造は、神の創造者への自己決定に基づいている。創造しながら自己から出ていく前に、神はご自身に対して決心し、決定し、定めることによって、内側にご自身へと働きかける。「神の自己限定」(Zimzum)というユダヤ・カバラ的教義を使って、このような考え方が深められねばならない。そうすることによって、無からの創造(Creatio ex nihilo)の教義について、より深い解釈が得られねばならない。しかし、われわれは神の自己限定と無についての教義を、十字架にかけられた神の子に対する信仰のメシアニズムの光に照らして、取り上げ用いるであろう。〉(ユルゲン・モルトマン[沖野政弘訳]『創造における神 組織神学論叢2』新教出版社、1991年、135頁)モルトマンは、「外部から創造がなされた」という発想から、キリスト教神学が解放される(自由になる)必要があると考えます。神が神自身に働きかけるプロセスとして創造を理解すべきであるというユダヤ教のカバラー思想を援用して、プロテスタント神学の創造論を再構築するというのがモルトマンの戦略です。そのためには、アウグスティヌスによって、カトリック神学、プロテスタント神学の双方にとって公理系のごとくなった、創造を神の業の外部に向けた作用という見方を改めなくてはならないと考えます。(中略)
アウグヌスティヌスは、神は人間と自然を外部から創り出したと考えました。しかし、このような考え方をすると、神は宇宙に遍在していないことになります。神が支配していない領域、すなわち神の主権が及ばない領域がそもそも存在するということになるのです。遍在することができない神は、ユダヤ教、キリスト教の神概念と相容れないように見えます。ここで、カバラー思想を援用して、モルトマンは神の自己限定(その結果、神の収縮が起きる)について考えるのです。〈しかし、事実、神の外を考える次のような一つの可能性がある。すなわち、創造に先立つ神の自己限定の仮定のみが、神の神性と矛盾せずに一致させられる。神ご自身の「外の」世界を創造するために、無限なる神は前もって有限性に対して、ご自身の中の場所を明け渡したに相違ない。神のこのようなご自身の中への退去が、神が創造的にその中へと働きかけることのできる場所を明け渡す。全能と遍在の神が神の現在を撤退し力を制限することによって、またそうする限りにおいてのみ、神の無からの創造のためのあの無が成立する。〉(前掲書136頁)
神が収縮した後にできた空間で、われわれは創られたのです。被造物であるわれわれには、神の収縮が、あたかも外部から神による創造がなされたように見えるのです。神の収縮によってできる原空間についてカバラー思想家のルーリア・イッハーク・ベン・シュロモーは、こう述べます。
〈最初にこのような考え方を神の自己限定(撤退)論の中で展開したのは、ルーリア・イッハーク・ベン・シュロモーであった。撤退は集中と収縮を意味し、自己内へ退去することを示している。ルーリアは、古いユダヤ的内在(Schechina)論を取りあげた。それによれば、無限の神は神殿の内に住むために、自らの現在を縮小することができるのだという。しかし、ルーリアは内在論を神と創造に適用した。神の外の世界の存在は、神の転位によって可能にされる。この転位によって、神がその中へとご自身から出て行き、ご自身を啓示することのできる「一種の神秘的原空間」が明け渡される。「ご自身からご自身へと撤退される場所で、神は神の本質と存在ではないあるものを呼び出すことができる」。創造者は宇宙を「動かずして動かす神」ではない。むしろ、創造にそれ自身の存在の場所を与える、この神の自己運動が創造に先立つ。神はご自身から出て行くために、ご自身の中へと撤退する。神の現在と力を撤退させることによって、神は被造物が存在するための前提を「創造する」。「その最初の行為において外へと働きかけるかわりに、むしろご自身へと向う神の本質の自己限定(撤退)の中に無が現われる。ここにわれわれは、そこで無が呼び出される一つの行為をもつ」。創造と救済における創造的力となるのは、神の自己否定の肯定的な力である。〉(前掲書136〜137頁)

「神の収縮」というカバラから借用した教理に関しては、佐藤優氏が次のように述べている。
悪の問題 
ここで重要なのは、悪が存在するということである。神だけが善であるということは、神以外の領域には悪が存在するということである。ここで悪はどこからやってきたのかという神義論(弁神論)的問題がでてくるが、この点について現段階で深入りする必要はない。悪は、「善の欠如」というような生ぬるいものではない。悪は、それ自体として自立した存在であり、また発展していくことができるのである。この悪の実在について、神は責任を負わない。このような大枠だけを確認しておこう。
(補論―――この点については、ユルゲン・モルトマン(中略)が行ったようにユダヤ教のカバラー思想、とくにイツハク・ルーリア(中略)の「神の収縮」概念を用いることが有益と思う。この方法を用いれば、悪の自立と、それに対して神が責任を負わないことが矛盾なく説明できる。>(佐藤優著『神学の履歴書 初学者のための神学書ガイド』〔新教出版社〕p27〜28)
その他、佐藤氏の「神の収縮」に関する解説は下のリンク先(「日本人のためのキリスト教神学入門」の第24回「創造論(2) 創造とは神の収縮である(1)」)を参照。その最後は次のように書かれている。
「神はもともと宇宙の隅々にまで満ちていました。それがあるとき、「縮もう」と決めたのです。人間から見れば神の気まぐれのように見えますが、そこに神の意志があるのです。すなわち、神が自らの場を人間に明け渡すという意志です。神が収縮した結果、神が存在しない原空間が生じるのです。人間の自由意志は、この原空間で悪を作り出すのです。この人間の悪事に対して神は責任を持ちません。」
http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2013/04/post-54.html

神(=ヤハウェ)が「人間と自然を外部から創り出した」としたら、「神は宇宙に遍在していないことに」なる・・・というこの理屈は、「神の収縮」によって世界が創造されたという理屈と同じく、まったくおかしいと私は思う。「神の遍在」というのは、神が創造した世界に神ご自身が時空において満ちておられるということを意味する。「外部」は時空を超えた「永遠」であり、「内ー外」とか「自ー他」とか「有ー無」といった分別の対象とはならない、いわば「(絶対)無」である。それは「神」であって「神」ではない。これと指示することもできないが仮にこれと言うなら、これは「神が支配していない領域、すなわち神の主権が及ばない領域」などと定義できないし「存在する」と自明的に言えるものではない。
こういう形而上学的思弁による解決の仕方ではなく、あくまでも聖書解釈の常識的妥当性において「神の遍在」を考えるなら、聖書は総じて「神ご自身の遍在」ではなく「神の霊の遍在」を説いていると言える。ちなみに「神の遍在」を認めつつも、これに例外を認めている立場がある。それが本当だろう。以下、金沢聖書バプテスト教会のサイトより引用。
<確かに、神はこの世界すべてに「満ちて」おられます。ですから、この世界の大小かかわらず、どのような地点においても神の支え無しに存在する場所はありません。すべての場所に、神のご支配がおよんでいます。しかし、「木の中」であるとか、「神殿の中」、「人間の中」すべてに神がおられると単純に言うならば、これは聖書の教えと反してきます。T列王記8:27でソロモンは、自分の建てた壮麗な神殿はもちろん、天の天も神をお入れすることができないと証言しております。パウロもアレオパゴスの説教で同じことを言っております(使徒17:24)。また、人の手で作った像の中に存在するとなれば、すべての宗教は、同じ神を礼拝することになります。神は、霊なるお方ですから、そのような所にはお住みにならず、地上の場所や、物質を通して神を知ることはあり得ません。むしろ、それは罪であるというのが聖書の教えです。このような意味で、神は別次元の存在であります。エレミヤ23:23は「わたしは近くにいれば神なのか。――主の御告げ――遠くにいれば、神ではないのか。」と語ります。神は、遍在性を持たれながら、近くにおられたり、遠くにおられたりするのです。あるいは、「高い」ところにおられるとも、聖書は言っています。神は、全ての場所におられながら、はるか「高く」におられる方です。これを神の超越性という言葉で表現します。聖書の時代に「高く」というのは、空間的なイメージをしても充分とらえられるものでした。(もちろん、当時においても空間的に「高い」わけではありませんでしたが)人間は、決して宙に浮くことができなかったからです。しかし、今は、宇宙へ行くことの出来る時代です。空間的に「高い」ということと、神がとても「高い」方であられることが結びつきにくくなっています。しかし、このことは非常に大事な理解になります。どの場所においても、神はおられますが、どの場所においても神が「近く」におられると言うことは、必ずしもできません。むしろ、どの場所においても、神は非常に「高い」ところにおられる方です。>(〜「いずこにもおられる神」) http://www.kanazawabbc.org/attribute_of_god/1060/ (※この記事を書いたのは教会の牧師ではなく伝道師とのこと。) 

私自身は下記の「遍在」理解に同感。
<聖書が示す「神」は、ひとことで言うと「全一者」です。この世界ないし宇宙全体が「神」ですが同時に世界ないし宇宙の中のモノはすべて「神」ではなく被造物である・・・これが私にとっての「神の遍在」の意味であり「全一神観」なのです。「神の内在」という場合はあくまでも「超越的内在」であり、人の中に「神」が住まわれるといった表現は、上記の意味での「遍在」の帰結として「神の支配」が人の心身の内にも及ぶということであり、物理的意味とは違って「神」が人よりも小さくなるとか閉じこもるとかいった意味ではありません。「神」は常に被造物を超えて大いなる存在です。だからこれは汎神論でもなければ、「自然という、神とはぜんぜん違ったものの中に神性が宿ること」(関根正雄著『古代イスラエルの思想 旧約の預言者たち』〔講談社学術文庫〕p86)といった内在的意味の汎在神論(=「万有(内)在神論」)でもなく、逆に自然が神の内に存在するという(使徒17:28)・・・あえて名付けるなら、超越的な「汎包神論」(=「万有(外)包神論」)とでもいうことです。>(〜ブログ「全一者」)http://inri2009.at.webry.info/


前の前に引用した、「すべての場所に、神のご支配がおよんでいます。しかし、『木の中』であるとか、『神殿の中』、『人間の中』すべてに神がおられると単純に言うならば、これは聖書の教えと反してきます。」という文言は、そのまま読めば矛盾しているとの批判は避けられない。結局、「神は、霊なるお方ですから、そのような所にはお住みにならず、地上の場所や、物質を通して神を知ることはあり得ません。むしろ、それは罪であるというのが聖書の教えです。」という「そのような所」とは「神の遍在」の例外的な空間ということになる。しかし「お住みに」ならない(=滞在しない)からと言って必ずしも存在しないということにはならないのでは?との疑問も生じる。この点は解釈の問題であり、「神の遍在」の例外として「お住みにならず」という言葉を解するなら、そもそも「遍在」の主体は「神ご自身」ではなく「神の霊」であるとするエホバの証人(JW)やアデルフィアン派の教理も注目に値するだろう。
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/102005167?q=%E9%81%8D%E5%9C%A8&p=par
http://www.biblebasicsonline.com/japanese/01/0102.html
http://www.biblebasicsonline.com/japanese/01/D01.html

「神の遍在」を否定する教理が人間中心的であると批判されるなら、「神の遍在」に例外を設ける解釈も同様に批判されて然りだろう。同じ解釈にすぎないなら、私は「神の霊の遍在」の方が聖書の内容に合うと見る。しかしあくまでも「神」御自身の「遍在」にこだわるなら、すなわち「神の遍在」を聖書の教理として認めるなら、上記の「全一神観」および「汎包神論」といったことになる。
単に、「われわれは神の内に生き、動き、存在する」(使徒17:28)というだけなら、被造世界のどこまでが「神」の領域で、どこからが「われわれ」の領域なのか、境目(質的差異)が曖昧である。この世には神性を帯びた霊が満ち満ちており、ニュートリノのような超素粒子に至るまで万物に浸透していると誤解されるおそれがある。これは創造主(神)と被造物(自然、人間)との不可同・不可逆性なき相互内在であり、正教的「人間神化」の如き神秘主義的教理の類いがこれであろう。当然、このような考えは聖書的信仰と相容れない。
その点で、「神は、遍在性を持たれながら、近くにおられたり、遠くにおられたりするのです。あるいは、『高い』ところにおられるとも、聖書は言っています。神は、全ての場所におられながら、はるか『高く』におられる方です。これを神の超越性という言葉で表現します。」というところは、遍在の教理を汎神論やアニミズムと区別する上で有意義だと言える。
「詩篇139篇は、人がどこに行っても、そこに神がおられることを記します。それは、この地上だけでなく、死後の世界、天上の世界においてもそうであります。」と言われているが、7節に「あなたの霊を離れて」(岩波版 松田伊作訳)とあるとおり、ここでは「神の遍在」ではなく「神の霊の遍在」が説かれているとみるべきで、この点はJWの「このような表現を取り違え,神は遍在していると考える人もいます。しかし,この聖句や他の聖句の文脈を検討すれば明らかなとおり,エホバの聖霊つまり活動する力は,エホバのおられる一定の場所から物質宇宙のどの場所にも達し得るものなのです。」という解釈に説得力を感じる。
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/102005167?q=%E9%81%8D%E5%9C%A8&p=par
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2011572?q=%E9%81%8D%E5%9C%A8&p=par
https://www.jw.org/ja/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88/%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%BD%8F%E3%81%BE%E3%81%84/

「あなたの顔を離れて」の「あなたの顔」はこの場合、「神の霊」が「神の人格性」ないしは「神の身体性」を人々に感じさせるはたらきをしていると言えるだろう。そして「神の霊の遍在」を「神の遍在」と解するなら、「神の遍在」は地上の世界だけではなく「死後の世界、天上の世界」にも及ぶとのことだが、そもそも「神の遍在」とは一般的に、「神」が、時間的には同時に、空間的にはあらゆる場所に「存在する」ことであるといわれる。その「存在」というのは時空間を前提とする概念であり、「死後の世界、天上の世界」も時空間に制約されていると言えるのかどうなのか・・・制約されていないなら「存在」ないしは「遍在」という概念自体が成り立たないのではないだろうか?

神愛めぐみバプテスト教会のフェイスブックには「ライリー博士のBasic Theology」からの学習メモが記載されているが、ここでの「遍在」の解説において注目に値する点は、プロセス神学を「汎神論」と断定して批判しているところだ。「遍在」それ自体については「あらゆる場所にその全存在がある」点が主旨のようだが、「全ての信仰者の中におられる主の存在」とか「信仰者への内住(ガラテヤ2:20)」と言われているように、「遍在」説は「内在」説を含んでくる。そして「(父なる)神」の内在も聖書的根拠は確かにある(エフェソ4:6)。しかしこの場合の「内」(i n/εν)というのは物理的意味ではなく、外界に対する内界とか、外面に対する内面といった意味ではない。自分の解釈としては、「神」が普遍・客観的な意味での「唯一絶対の神」ではなく、個々人にとって実存的な意味での「唯一絶対の神」であるということ、その「〜にとっては」というほどの関係論的意味での「内」であり、いわゆる存在論的意味での「内」ではない。つまり、「内面性」としての「内」・・・「心、精神」としての「内」に存在するのは、聖書においては「聖霊(神の霊、キリストの霊)」であって、「神=父」自身とか「キリスト」自身ではない・・・という理解であり、この点では伝統的キリスト教よりもJWの方に近いだろう。

<H.遍在
1. 意味
遍在とは、神がいつどこにおいてもその全存在をもって存在する事を意味している。
2. 聖書の言明
詩篇139:7〜11でダビデは、人が神の臨在から逃れられる場所があるかと問うた。その答えは、否であった。というのも、神の遍在性は、場所に制限されず(8節)、速度に関係なく(9節)、暗闇の影響を受けないからである。(11〜12節)
3. 特徴
定義で述べられたように、遍在とは、神の存在があたかも一部はある場所にまた別の一部は違う場所にあるかのように宇宙に拡散されている事を意味しない。あらゆる場所にその全存在があるのであり、全ての信仰者の中におられる主の存在はそのよい例である。
遍在は、その存在の直接性が異なる事がないという意味ではない。それは、異なる場合がある。御座における存在(黙示4:2)、ソロモン神殿における臨在(U歴代7:2)、あるいは、信仰者への内住(ガラテヤ2:20)と火の池における臨在(黙示14:10)とは、確かにその直接性において異なっている。火の池にある人々は、神の御顔(プロソウポン)から切り離されているけれども(Uテサロニケ1:9)、遍在する方の御前(エノピオン)から決して引き離されたのではないのである。(黙示14:10)しかし、神が信仰者の内に住まわれる時に存在するような親しい交わりは、明らかにそこには存在しないのである。(というのは、火の池にいる邪悪な者どもから神は、御顔を背けられるからである。)
遍在は、神を宇宙と同一視する汎神論とは異なっている。この言葉は、1705年に英国の理神論者ジョン・トーランド(1670年〜1722年)によって最初に用いられ、彼は、「神は、宇宙の精神、あるいは、魂である。」と教えた。この異説は、創造者と被造物を区別しそこなっている。しかし、その区別は、まさに聖書の最初の節に教えられている事なのである。
遍在は、プロセス神学者によって示されるような汎神論とも異なっている。彼らは、神の存在が全宇宙に浸透しているが、宇宙によって使い果たされないと教えている。遍在とは、確かに神がどこにでもおられる事を意味しているが、それは、宇宙に拡散しているとか、浸透しているかと言う事を意味しているのではない。さらに言えば、神は、プロセス神学が教えるように一つのプロセス(過程)のように発展しているのでもないのである。
4. 影響
誰も、神の臨在から逃れる事はできない。これは、無神論者に警告を発し、信仰者を慰めとなる。なぜなら、神が遍在されるので、人生のあらゆる状況において神の臨在を味わう事ができるからである。>
https://ja-jp.facebook.com/agaph.theou/posts/885442014852226

なお、八木氏は「神」について「遍在者」という言い方はしていない。これも人格主義的神学の用語になるからだろう。
<「神と人との相互内在」(神は人のなかにあり、人は神のなかにある)(中略)「(人が)神のなかにある」ことを「(人が)神というはたらきの場に置かれていること」と言い直すと、神は「場」という比喩で語られることになる。他方、「神が(人の)なかにある」ときは、人は神のはたらきが現実化する「場所」であるといえる。「人が神のなかで」と「神が人のなかで」との両方で、人間は神によって生かされること(受動)、他方、人間が自由な主体として生きること(能動)が語られる。(中略)神(キリスト、聖霊)が場所論では「霊」として把握されていることに気づかれるであろう。実際そうなので、「霊」は目に見えず形もなく遍在しているから、事物・人は霊の作用圏内にある。他方、霊は人(ないし事物)に宿って出来事を生ぜしめる。「霊」は人格や存在というよりは、「はたらき」である。>(『イエスの宗教』p2〜3)
<ロゴスは無である。実際キリスト教は、神・キリスト(ロゴス)を霊だというが、霊とはいかなる相対存在でも「普遍」でもないということである。>(『キリスト教は信じうるか』p184 ※「ない」に傍点あり)
八木氏によれば、この神学においても「究極者・根源」たる「神・父」は被造物に内在しない。上の引用箇所で、<神は世界と人がそのなかに置かれる「場」、世界と人は神のはたらきを宿して現実化する「場所」である。世界のなかではたらく神は「ロゴス」(ヨハ一1−3) 、人のなかではたらく神は「キリスト」>とあるとおり、「内在する神」は「キリスト」である。これも「神」とはいわれているが、それは「神=はたらき」とした場合であって、私が言うところの「神」に該当するであろう存在は、「世界と人がそのなかに置かれる『場』」といわれている。「場」とは非人格的概念であるが、これは八木氏においても第一位格(根柢・根源)の「神・父」は常に超越者であって内在者ではないことを意味する。ただし「超越的内在」という表現もあり(『キリスト教の根拠と本質』p115)、分節せずに「神=はたらき」を主語として語る場合には、「神」は超越者としての面とともに「ほんとうの私=自己」という究極の主体としての面が出てくるということだろう。
ちなみに、八木神学における「三位一体」が正統的キリスト教の「三位一体」と根本的に異なるのは、その「三」つの「位格」の内で厳密に「神」と呼べるのが「父」だけであり、「キリスト(ロゴス)」は「神」と区別されるという点である。つまり「神、キリスト、聖霊」の三一であって、「神・父、神・子、聖神」(至聖三者)の三一ではない。しかもキリスト教では歴史上の人物であるナザレのイエスが「キリスト」であり「ロゴス」であり「神」であるが、八木氏はこれらを区別している。従って「三位一体」という定式だけの一致であり、内容的には全然違う。八木氏は2012年1月の私との往信で、「ギリシャ教父には『場所論』的なものへの優れた感覚があります。ただ、彼らはそれをギリシャ的存在論の概念で語ったので祖語が生じました。ホモウーシオス、ヒュポスタシスなどがその例です。これは神学のヘレニズム化と言われていますが、彼らには感覚を適正に表現する概念性がありませんでした。」(2012.1.25)と書い下さったのだが(このコメントは、『〈はたらく神〉の神学』4頁や『イエスの宗教』26頁の関連記事を踏まえての私の質問に対するもの)、いかにギリシャ教父の感覚が場所論的であれ、彼らこそナザレのイエスというただの人(=相対者)を神格化(=絶対化)した張本人ではないのだろうか。その場所論的感覚を適正に表現する概念性を有していたとして、彼らが八木氏のように「ナザレのイエスは、ロゴスと上下相互内在の関係にあるひとりの人間だ」(『キリスト教は信じうるか』p199)といった趣旨のことを考えたとは思えない。また、八木氏は「神」を二重の意味で使っている。一つは上記のとおり「神=第一位格(父)」としてであり、もう一つは「神=はたらき」としてである。後者の意味においては、上の引用箇所で言われている「神、神のはたらき(神の自己伝達作用つまり聖霊)、キリスト(すなわち人のなかではたらく神) は三にして一だということになる。神は、はたらきの根源(究極の主体)、聖霊は、はたらきの伝達作用、キリストは、その結果人のなかに宿る神だからである。三位は、はたらきとして一で、はたらき方として三である。」という説明は成り立つ。注意すべきは、第一位格としての「神=父」が「根源(究極の主体)」として、キリストや聖霊と区別されていることだ。たしかにこの点はギリシャ教父の考え方に合う。しかし御父が本源者といわれるのは御子を生み、聖霊を発出するからだ。八木氏がギリシャ教父の思考を、いかに場所論的だと評価しても彼らがナザレのイエスとキリスト(ロゴス)とを区別することなどあり得なかっただろう。むしろ、ギリシャの多神教的風土の影響(ヘレニズム)によってイエスは実体的に神格化されたのではないか。

ハートショーンにおいては喜田川信氏が『神・キリスト・悪』(新教出版社)の中で次のように指摘しています。
「ともかく神と世界とは同時的なのである。神に先立って世界はなく、逆に世界に先立って神は存在しない。そこで宇宙(世界)は神であるか、それとも神と宇宙という二つの卓越した存在があるか、どちらかである。このジレンマは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であると考えることにより解けるとハートショーンはいっている。原因(創造者)と結果(宇宙)とは神の二つの側面だというのである(中略)これはまさに汎神論ではないだろうか。ガントンはそのようにハートショーンを批判している。これに対しハートショーンは、自分の立場は汎神論(pantheism)ではなく万有在神論(panentheism)だというのである。」(p13)
喜田川氏の結論は次のとおりです。
「かれによれば、神以前に素材としての物質はなく、逆に神なしに物質(被造物、世界、宇宙)は存在しない。両者は同時的なのである。そこでハートショーンは、創る神と包括的な宇宙とは一つの神であるとさえ言うことが出来る。創る神は宇宙のプロセスの源泉または原因であり、宇宙はプロセス全体もしくは結果なのである。そしてこの時原因と結果とは神の二つの側面であると言っている(中略)
もしそのように創る神と宇宙とは一つの神だとするなら、汎神論(pantheism)と万有在神論(panentheism)との区別を明確にすることが出来るのであろうか。またそこで真の意味の創造をいうことが出来るのであろうか。(中略)時間にしても、時間と空間が被造物の存在形式であるならば、神は時間を創ったというより神御自身が時間の中にあると言ってよいであろう。(中略)
先ず、神の外といって内とか外という概念自体、創造以前(この以前という言葉も問題であるが)の神自身にあてはめることは出来ないのである。空間自身世界創造と共に創られたものであるから。だから、神自身が自分の場所を明け渡して被造世界を創るといった考え自身、矛盾を持っているのである。それだけではない。もっと重大なのは神が御自身の場所を明け渡し、撤退すること自身が「虚無そのもの」であり、悪魔的なものを形成するという言葉である。ここには明らかに矛盾がある。というのは、創造は神の存在自体である愛からほとばしり出た神の憧憬によるものだからである。それがどうして創造自体に神の非存在、虚無そのものが生じ、それが神の苦難となって――よし人の罪の側にも原因があるとしても――行くのであろうか。なぜそれが悪魔的な力を形成するのであろうか。要するにモルトマンの神学には、悪についての明確な解明が欠けている。また神の苦難が本当の苦難であるのかという疑問が生じる。>(p20〜65)



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