聖書の御神体

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zoom RSS 聖書が示す「神」の対象性と身体性

<<   作成日時 : 2013/12/31 23:59   >>

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今は故人となられましたが、無教会の量義治氏は、信仰は認識論的事態(=意識の事柄)ではなく存在論的事態(=存在の事柄)だと述べておられます(量義治著『無信仰の信仰 神なき時代をどう生きるか』〔ネスコ/文藝春秋〕参照、『関根正雄記念 キリスト教講演集T,U』〔関根正雄記念キリスト教講演会準備会〕参照)。しかし信仰は「(対)神関係」における人の態度であり、当然、意識を媒介します。従って量氏は「信仰」と「(対)神関係」とを混同しておられるとしか思えません。同じ区別なら、「(対)神関係」は「存在の事柄」、「信仰」は「意識の事柄」とする方がまだしも量氏の「無信仰の信仰」説よりは現実的で説得力があると思います。量氏も神の対象性を否定していますが、対象性なき神こそ哲学的観念にすぎません。聖書に於いては「神の対象性」は単なる観念ではなく、自分のような信徒にとってはまさに心霊上の事実なのです。旧約聖書では神の対象性を「顔」という言葉で象徴的に示しています。無論、神に動物のような顔があるわけではありません。野本真也氏が「比喩としての旧約テキスト」という論文の中で、「神の現実性を伝達する場合、旧約の人びとは、じつにさまざまな隠喩を用いている」と指摘し、「比喩の感覚や意識が失われると、旧約の人びとが非常に大きな感動をもって認識し、その感動を伝達しようとしたところの神の現実性が、われわれに伝わらなくなってしま」うと述べておられるとおり、教理的あるいは哲学的な思弁的解釈がそのような支障をきたすのです。信仰生活の核心である神との個別の関係とその感動が活かされるためには、聖書の比喩を尊重する態度が必要です。上記の論文では聖書は神を父性の面だけではなく母性の面でも豊かに表現していることを指摘していますが、私の信仰に於いてはやはり父性の面に重きが置かれています。「神の顔」といえば、イエスの顔と同定するような説もありますが、イエスの顔はあくまでも人としての顔であり、せいぜい「神の子」とか「キリスト」とか呼ばれた者としての顔ではあっても決して神の顔ではありません。人は活ける神を物の如くに客体として(=偶像化して)認識することは出来ませんが、対人関係に於いて顔の見えない相手と誠実な人格的関係を結ぶことは出来ないように、対神関係も全く捉えどころのないような相手では信仰することは出来ません。十戒の第一戒(出エジプト記20:3)で「私の面前で君は他の神々を持ってはならない」(関根正雄訳.「面前」は「アル(〜の前に、〜の上に) パーナーイ(私の顔)」〔※「顔(面)」は複数形「パーニーム」〕)と言われているのは、神にも「顔」で象徴される人格的対象性があることを意味します。また、「君はわが顔を見ることは出来ない。人がわが顔を見て、なお生きていることは出来ないのだから」(同、出エジプト記33:20)と言われているのも、神の顔を人は見ることは出来ないということと神に顔が無いということとは全く違い、むしろ神には何らかの意味で実体性を認めることは出来るということです。少なくともモーセは神の「後ろ」(アーホール)を見ることが許されたのであり、ヤハウェはそのような意味での認識対象となり給うたのです(出エジプト記33:11他参照)。また、神聖法典の用語法の「私の顔を与える」は神の怒りと処罰の意志を表すとのこと(岩波版レビ記17:10の注参照)。

量氏などの哲学的神学者が神の対象性を極端に否定しているのは、現場の信徒の生活からかけ離れた理屈によるものです。
「わが顔がともに行くであろう。そしてわたしは君に安息を与えよう」(同、33:14)とは、人格的交わりの対象性を表わしていると言えます。人格的存在であるということは、「ヤハヴェは人がその友と語るように顔と顔とあわせてモーセと語られた。」(同、33:11)とあるとおりコミュニケーションの対象であるということです。創造主ヤハウェは人間にとって対向者なのです(他にも「アロンの祝福」〔民数記6:24〜26〕におけるヤハウェの「(御)顔」や、ヤハウェの「顔の光」〔詩篇4:7、44:4他〕といった表現に注意)。
参照:http://ytbpch.jp/nyuumon/kaminokao.htm
「理」としては神に「体」は無く対象化できないが「事」としては神に「体」が有り対象化できるという、神と人との関係に於ける事情を示唆する聖書箇所として、私はソロモンの祈りから次の言葉を挙げます。
「それにしても神は本当に地上にお住みになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることができません。私が建てたこの神殿などなおさらです。しかし、わが神、ヤハウェよ、あなたの僕の祈りと願いを顧み、今日、あなたの僕があなたの前に献げる叫びと祈りを聞き届けて下さい。そして、夜も昼もこの神殿、あなたが『わたしの名はそこにある』と仰せになったこの所に、あなたの目を開いていて下さい。あなたの僕がこの所に向かって献げる祈りを聞き入れて下さい。」(列王記上8:27/岩波版、池田裕訳)
<一般に何々の名とは何々そのものであり、人は名(すなわち名詞、言葉)を知るだけでその実体をも把握し得たと思う。こうして聖書でも、例えばエレサレム神殿はヤハウェがおのれの「名」を住まわせた場所である、とされた(申12:11等)ように、「神/ヤハウェの名」は、神/ヤハウェそのものを表し(5:12、124:8等)、しばしば「神/ヤハウェ」またはこれを指す代名詞と並行して現れ(7:18、20:2、44:6等)、例えば「ヤハウェの名を呼ぶ」(79:6、80:19、99:6、105:1、116:4,13,17)とか「ヤハウェの名を知る」(9:11、91:14)とは、神/ヤハウェを拝することである。いっぽう名即実体というこの心的作用は、神名の禁忌(出20:7等)を引き起こし、「ヤハウェ」の代わりに「(わが)主」ないし「あなた/かれの名」と呼ぶ慣習を生んだ(8:2、29:2等)。>(〜岩波版 松田伊作訳『詩篇』補注 用語解説「名」※松田氏は『聖書ヘブライ語』〔キリスト教図書出版社〕第5号の11頁で、ヤハウェの名がヤハウェ自身を表す場合があること、また「名即実体」ということを述べている。)
「名」は「体」を現すと云われるように、神の「名」のあるところに神の「体」を観想することが許されるのです。イスラエルの民は「神の名」に「神の体」を感得していたからこそ口に出すのを畏れたのです。関根正雄氏は「神の名」に関して前掲書で次のように述べています。
「ヤハウェという名前がモーセ時代に知られるに至ったことは、三つの資料のうちエロヒム資料と祭司資料が一致しており、歴史的にもヤハウェはモーセ以後知られるに至った神名であることは多くの人の認めるところである。ヤハウェの名前を含んだイスラエル人の人名も、おそらくヨシュアという名前からはじまる。」(p83〜84)
<モーセ召命の時に戻って、神名の意義を問わなければならない。旧約の神はモーセ以後ヤハウェという名称で一貫している。それに対して、バビロニアの主神「マルドゥック」は五十も名前をもっており、エジプトの「レー」は四十の名前をもっている。その点はイスラエルの神と著しい対照をなす。旧約の神名が一つだということは神が一人だということである。「ヤハウェ」のほかに前述の「エール・シャッダイ(全能の神)」や「エール・エルヨーン(至高き神)」が後々までわずかに出てくるが、問題にならぬ回数である。>(p88 ※「至」に「いと」とルビあり。)
<旧約・新約聖書を通じ「神の名」は決定的意味をもっている。神の名は神の側からの啓示であるし、この名を呼ぶことが神のリアリティにいつも新たにふれるための基本的な道である。族長の場合にも私はすでにその点を強調した。しかし神名を呼ぶことが、とかく人間の側のこととして受けとられる傾向が、ことに日本人の場合に多い。それゆえ私は日本仏教の中で、「心」や「念」を排し、称名の超越的な面を強調する一遍上人の信仰が聖書的な「神の名を呼ぶこと」(創世一二ノ八、ヨエル二ノ三二)にいちばん近いと思う。>(p92 ※木田氏の「神の名と人間の主体」の説は、まさにここで指摘されている「人間の側のこと」に傾いていると思われる。)
<根源的には霊にして聖なる神の名と律法の啓示を離れてモーセ時代の神の顕現はなく、その場合には神は知られざる「隠されたる神」(Deus absconditus)としてとどまったであろう。根源的には神の名と律法を離れて神はなかった、啓示の神(Deus revelatus)はなかった。>(p102)
上記引用文中で「旧約の神名が一つだということは神が一人だということである。」と言われる場合の「一人」は「ひとり」と平仮名で表記されるべきだったと思います。こういう配慮の欠如がその人の意識下の信仰心を表してしまうのです。単なる誤記ならよいのですが・・・。

概して、実存的信仰の立場は「神の名」を尊重し観念的信仰の立場は「神の名」を軽んじる傾向にあると言えます。その観念とは「神の不可称性または不可命名性」であり(〜有賀鐵太郎著『キリスト教思想における存在論の問題』〔創文社.1969年〕p159)、「それは特に教父ユスティノスにおいて顕著であり、それを遡ればフィロンに行き着く」(同書p156)とのことで、さらにその源にはアリストテレスの名称「措定」説があるようです(同書p154参照)。
アリストテレスの「実体」について・・・第一実体 = 「個物」(結合体) ⇒ 主語になる(A.「質料」(基体)、B.「形相」〔本質〕)/第二実体= 種・類の概念(普遍)⇒ 述語になる。※「実体」についての現実的な説明は当ブログの<「実体」の実際的定義」>参照。
「神の名」が「神の本性」を示すものではないといった考えが、「神の不可知性」すなわち人間が「神の存在を知り得ないということではなく、ただ神の本質を知ることができない」(同書p159)という考えと関連して「神の無名性」を語ることになるのでしょう。このような哲学的思弁は、考えが深いというのではなく考え過ぎているのです。この「神の無名性」という観念は聖書的神信仰には無用です。旧,新約の別を越えて「名が神的主体を代示するもの」だといわれています(同書p153)。また、この有賀氏の著書では文法主義的解釈が目立ち、「注意されていいことは、その主語はehyehの中にかくされていて、特に『われ』(anokhi)なる代名詞がここに用いられていないことである。主体が先ず存在して、それが働く、と考えられているのではなく、むしろ働くことのうちに主体が自らを啓示するのであって、主体・即・働き、働き・即・主体なのである。しかし、それはたんに現象的作用のうちに神が内在すると理解されてはならない。むしろ神的働きは現象の過去的性格とは全く異なった意味の働きである。それは常に'ehyeh なる未完了形を保つところの、将来的・創造的働きである。」(p189 ※この註には「言うまでもなく、ヘブライ語動詞の変化は過去、現在、未来の三つの呼称についてなされるのではなく、時に関係するものとしては、ただ完了、未完了の二つの形があるばかりである。」と記されている〔p199〕。)などと述べていますが、それは人称を独立させずに語頭か語尾(ehyehの場合は語頭のeが未完了形1人称単数を示す)で表わす言語形態を神の現実と混同しているのであり、関根正雄氏も同意しておられるオルブライトの思考三段階説において古代イスラエル人の思考が「empirico-logical(経験的・論理的)で、まだ形式論理の段階に至っていないとされている(関根氏前掲書p89.p166も参照)ことを考慮すべきです。言わば未開の思考をヘンに神聖視するのは誤解を招くのでよくありません。有賀氏も「しかし、それはたんに現象的作用のうちに神が内在すると理解されてはならない」云々と断わり書きのような一文を付けてはいますが、文法にこだわりすぎていることに変わりはありません。ただ、このような考え過ぎの「ハヤトロギア」なる哲学的思弁において「働き」と相即関係で言われてはいても、やはり「神」の「主体」性が語られているのであって、その「主体」性もまた、聖書に示される「神」の「得体」として受けとめることができる。

「主体」と言えば逆に人間の主体を神名の啓示によって基礎付けるという考え方を示している論文が、有賀氏と親戚関係になる木田献一氏の「『神の名』と人間の主体――比喩的解釈の試み」ですが、私は出エジプト記3:14の「エフイェ」を神名とは思わないので、木田氏が「神の顔=ヤハウェ(彼はあらしめる)=恐るべき神の面」と「神の背中=エフイエ(私はある)=赦し愛する神の面」との二面性を「比喩的解釈」として対照的に物語ることには説得力を感じません。しかも預言者エリヤがホレブ山で聞いて絶望から希望へと転換させられた「静かにささやく声」(列王記上19:21)が「エフイエ」であり、この神名を聞く者はエリヤと同様に「わたしはある」という人間の側の主体性を喚起させ自立および共生の場を開くというのです。すなわち「エフイエ」という神の名は「それを唱える人自身が、およそ『わたしはある』ということを自分自身の存在についても確認するようになる」というのであり、これが木田氏の指摘する神名の啓示体験ですが、それを言うためにはまず、「エフイエ」という言葉が「ヤハウェ」の主体性を示す機能を有することを学問的に示し得なければなりません。創造主ヤハウェという「神」の側の主体性や実体性が明示されてはじめて、その啓示を受ける「人間」の側の主体性が確固とされるからです。しかし木田氏の視点は「人間」の側に偏っているように見受けられます。その顕著な表れは「エフイエ」の意味をいかにも単純に「わたしはある」と言っていることです。「ハーヤー」の意味については関根氏が前掲書で、<「ある」を神の存在性、不動性、恒常性という抽象的意味から解すべきではなく――これは西欧的な神の属性の考え方である――、「出エジプト記」三章一二節の「わたしは君とともにあるであろう」という具体的な神の同伴、現在から解すべきであろう。」(p90)と述べ、有賀氏も前掲書で、<ヘブライ語では「成る」とか「生起する」を離れた「有る」は考えられていない。>(p188)云々と述べ、岩波版の出エジプト記(木幡&山我訳)3:14の注で「動詞ハーヤーの意味は存在も生成も含」む(p149)と言われ、トーレイフ・ボーマン著、植田重雄訳『ヘブライ人とギリシヤ人の思惟』(新教出版社.1957年初版)で「ハーヤー動詞は現実の生成(Werden)をいみし、ある現実の状態から他の現実の状態への生起、あるいは推移をいみする。」(p57)と言われているとおりで、そのような「有る」のか「無い」のか、有る」には有っても「在る」のか「成る」のか不確かな言葉を神名とみなし、しかも人間の主体性を喚起する啓示体験の根拠とするのは聖書的神論としては危さを感じます。ついでに言えば、私は関根正雄氏の前掲書での言葉にも疑問点があります。
それは「万有(内)在神論」という考え方について、<西田幾多郎の「場所的論理と宗教的世界観」の中心的立場でもある。(中略)自然物そのものが神だというのではなく、自然という、神とはぜんぜん違ったものの中に神性が宿ることといってよいであろう。>と述べていること、まず、この定義が妥当か否かが問題です。「超越」より「内在」の方が前面に出ているので、これなら汎神論とさして変わりないでしょう。普通はこういう定義ではないはずです。特に、「旧約の神はすべての自然物の中に来り給うし、我々の体の中にも来り給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味では我々を越えている。」(p87 ※「越え」は「超え」の誤記か?)という言葉はいただけません。「内在しきってしまうことはなく」ても「内在」することが認められているからです。この点で、関根正雄氏における「万有在神論」は、私見では「汎神論」と大差なしとみるわけです。すなわち、神の「内在」を認める点で、「汎神論」(pantheism)も「汎在神論=万有在神論」(panentheism)も大差ないのです。まさに「神は細部に宿る」ということでしょう。しかし私にとっては「宿る」とか「内在する」のはあくまでも「神の霊」であって「神」本体ではないのです。出エジプト記の箇所を関根氏のような意味で万有在神論的に解釈すべきかどうかはともかく、旧約学的にはそのような解釈に妥当性を認めねばならないとしても、これまた「エフイェ」をめぐるハヤトロギア的言説に対してと同様に、果たして古代イスラエル人の思考や感覚を現代人が神聖視する意味などあるのかが問われるのです。そもそもモーセの感覚に近づくなど不可能でしょう。むしろ現代人は現代的な思考を通して聖書に記された古代の世界観を「非・神話化」などして実存(論)的に解釈して然りであり、それが摂理のもとで聖書の歴史的批判的釈義として許されているのではないかと思います。また、出エジプト記3:14のehyehの関根訳「わたしはあらんとする者」をギリシャ語70人訳(LXX)で「ホ・オーン」と訳されていることについて「これは神を実体とする見方につながる。私はギリシア的な意味の存在ということは旧約の場合には問題にならないと思う」云々というのも、その「ギリシア的な意味の存在」とか「実体」という語をどのような意味で用いているのかにもよりますが、少なくとも古代イスラエル人に思考様式を絶対化するような言い方に問題を感じるのです。要は、ヘブライ的思惟にもギリシャ的思惟にもとらわれず、この現代に生きる自分自身の思惟を通して、今・ここに与えられている「(対)神関係」の現実の中で自然体で聖書を読めばよいと思うし、信仰は学問と同じようにはいかないのだから実際にはそれしかないと思うのです。私にとって創造主なる神は被造物になど成らなくてよいから、どっしりと存在していてほしいのです。そして実際に私の「(対)神関係」の現実に於いてはそのような神として感得されるのです。
さらに真にして唯一の神名であるYHWH(ヤハウェ)が「ハーヤー」のヒフイール(使役・作為)形であり「あらしめる」を意味するという木田氏の見解も専門家の中では多数派とは言えません。関根正雄氏も上記のオルブライト説について語る前の箇所では、<あるイスラエルの学者は、比較的近年に、ヤハウェという名前をアラビア語の語根と結びつけて、「情熱的なる者」という意味だという。「存在する者」とか「存在せしめる者」とか、さらに現代的に「実存者」という意味だ、というが、問題はこの時代に「存在」とか「実存」とかいう概念が正確に原語の意味に応ずるかであり、さらに遡るとこの時代のイスラエル人の思考の段階の問題になろう。>と述べています。私見では同じ疑問が前述の野本真也氏の「比喩としての旧約テキスト」という論文における「エハド」解釈にも当たると思います。古代イスラエル人が、いかに知者といえども「合一」だの「全一」だの「一なる現実性」だのといった抽象的なことを思っただろうか・・・ということです。なお、バルトのように神の名を「イエス・キリスト」だと言うなどは論外です。聖書に於いて「神の名」といえば「YHWH」(=読みは、ヤハウェ、ヤーウェ、ヤハヴェ他)です。

ここで、信仰的立場は異なりますが、部分的には一致する点があるので、以下、メモ代わりに引用しておきます。

<霊性  「神は霊である」(ヨハ四・二四)。  神の存在様式は、物質ではなく、霊である。  イエスは「霊には肉や骨はない」(ルカ二四・三九)と言われた。神は、人間のような物質的身体を持っておられない。実際、神がかつてイスラエルの人々にホレブ山(シナイ山)で現われたとき、人々は「何の姿も見なかった」。だからどんな偶像も造ってはならない、と彼らに命じられた(申命四・一五)。神は、肉眼には見えないかたである。では、次のことはどう理解すべきだろうか。聖書にはしばしば、神の「顔」「手」「足」「目」「耳」といった表現が出てくる。「わたし(神)の顔を見ることはできない」(出エ三三・二〇)。「私(使徒ヨハネ)は、御座にすわっておられる方(神)の右の手に、巻き物があるのを見た」(黙示五・一)。「(神の)御足の下には、サファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった」(出エ二四・一〇)。そのほか、神の「目」(一列王八・二九)、「耳」(ネヘ一・六)などに関する表現もある。こうした表現は、無限者である神を有限な人間が理解できるようにするための、単なる擬人的・象徴的表現ととる人々も多い。そのように考えることもできる。しかし、聖書をよく調べていくと、そうした考えだけでは理解できないところも多い。私たちは「霊」というと、空気や霧のように、ただ一様に広がる漠然としたものと考えやすい。しかし霊なる神は、肉眼には見えず無形であっても、霊の眼には「姿」あるかたなのである(民数一二・八)。神は、無形の非物質だが、顔、手足、目や耳、その他に相当する各種の働きをする要因を持っておられる。それは物質的肢体や物質的感覚器官とは異なるが、有機的な働きをするそれぞれの霊的な各要因を持っておられるのである。したがって、霊には霊的な姿がある。イスラエルの王であり預言者であったダビデは、神に向かって、「私は・・・・御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」(詩篇一七・一五)と祈った。また、かつてモーセが、神に「どうか、あなたの栄光を見せてください」と言ったとき、神は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない」(出エ三三・一八〜二三)。神が、ご自身の「うしろ」「顔」等と言われる以上、神には霊的な御姿があるのである。神の御姿は、私たちの想像をはるかに超えている。それを私たちの知性で把握することは難しい。神は無限であって万物を超越し、肉の眼には見えず無形である。しかし、霊の眼に対しては、姿あるかたである
人格性  神が霊であることはまた、神が生命であり、人格的存在であることを意味する(「人格」ではなく、本当は"神格"と言ったほうが良いのだろうが)。哲学者は、しばしば感情のない非人格神を教えてきた。しかし、聖書に啓示された神は人格神である。人格とは、知情意(知性・心情・意志)の働きをいう。また「わたし」という自意識や、自己決断力等をいう。神は語り、喜び、愛し、怒り、また悲しみ、あわれまれる。神は深い心情に富むかたである。「(神は)あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられた」(一列王一〇・九)。神はまた、人間の堕落と罪に対して、慟哭とも言える心の痛みを示される。「わたし(神)のはらわたは、彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(エレ三一・二〇)。イエス・キリストは、罪の中にあるエルサレムを見たとき、「ああ、エルサレム。エルサレム」と言って嘆かれた。またラザロの墓の前に行ったとき、人間を支配する死の現実を見て「涙を流された」。主イエスのこの悲哀は、父なる神の悲哀でもある。無感情の神は、聖書の教える神ではなく、また実在の神でもない。神は深い心の動きを持ったかたである。>(〜「Remnant」)
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/073wakaru.htm
以上から、三浦綾子さんの『旧約聖書入門』における、「神は、体をお持ちにならない方(キリストは『神は霊である』と言われた)である」という言い方は不十分であり、むしろ不適切であることがわかる。そこまでふれるなら誤解を招かないように、「霊なる神は、肉眼には見えず無形であっても、霊の眼には『姿』あるかたなのである(民数一二・八)。」といった主旨のところまで言及すべきだった。

なお、エホバの証人においては、モーセやアブラハムが「神」を見たというのは「御使い」を見たのだと説いている。また、「心の目」ということも説いている。
https://www.jw.org/ja/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88/%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E7%A5%9E-%E8%A6%8B%E3%82%8B/#?insight
https://www.jw.org/ja/%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/%E9%9B%91%E8%AA%8C/wp20140701/%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E7%A5%9E%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%8B/#?insight

さて、キリスト教アデルフィアン派のサイトの以下の文言には条件付きで共感します。
<間違った解釈1:"神は霊である"(ヨハ.4:24) 神の霊は彼の力あるいは呼吸と話してその論題を要約出来るし、そして彼の本質の自身、彼の存在と性格がその霊の成し遂げる行動を通して人間に現れています。彼の霊は彼の人格を反映しているから、"神は霊である"と言われた句節は正確に翻訳すべきであります。神は多くのものに描写されています。例えば、"私たちの神は、焼き尽くす火です"(ヘブ.12:29)。"神は光です"(ヨハ1.1:5)。"神は愛です"(ヨハ1.4:8)。"言葉は(Logosの意味は計画、目的)神であった"(ヨハ.1:1)。このように神には彼の特徴を現わしています。聖書で"神は愛である"と読むので、'神の本性'を抽象的に'愛である'と定義するのは明らかに間違っているのです。私たちが誰は親切であると言いますが、しかしそれは彼が身体的存在がないと意味するのではありません。それは親切を現わしている彼の存在のマナーを話しているのです。神の力である彼の霊は、聖書では、神が遣わし、あるいは指示して彼の意志と性格に一致することを成し遂げるものと認識せねばなりません。神はその霊も創造したと話しています(アモ.4:13注釈を見よ)。神が霊であると言うのは神の同義語の反復であって、神の身体的存在を否定しているのではないのです。神が彼の霊を指示している実例はたくさんあって、神と彼の霊が分かれているのを示しています "彼(神)の聖霊を彼のうちにおかれた方は"(イザ63:11)。"この僕に私の霊を授ける"(マタ.12:18)。"天の父は求める者に聖霊を与えてくださる"(ルカ.11:13)。"霊が鳩のように天から降って"(ヨハ.1:32)。"私の霊をすべての人に注ぐ"(使.2:17)。聖書には度々神が"彼の霊"と話してその霊は人格的神でないことをが充分立証しているのです。この神と彼の霊の差違点は父なる神をイエスと聖霊と同等視する'三位一体説'を信じている人たちにはもう一つの難しい問題です。もしこれが事実であり、神が人格的でないものと仮定するなら、イエスは実際の存在でなかった者であり、また今もいない者となるのです。神が人格的存在でないなら、私たちが祈りをあげる時も、'祈りがただ私たちの心に存在する意識と神に関する考えとの対話であると言う意味になるので、重大な問題が起ります。私たち継続的に天に身体的に居られる神に祈っている事を気付かせるべきです(伝.5:2; マタ.6:9; 5:16; 王上.8:30)。そしてイエスはいま神の右におられ、私たちの祈りを神にあげています(ペテ前.3:21; ヘブ.9:24)。もし神が人格的でないなら、このような句節はなんの意味もないのです。しかし一度神が実際私たちを愛している父であると認識することができれば、私たちが信頼している他の人に話すと、彼は私たちの意志に反応し応答するように、私たちの祈りは私たちが触知できる実際的神にあげるのです。>(〜「聖書基本知識」)
http://www.biblebasicsonline.com/japanese/01/D01.html

はじめに「条件」と言ったのは、上に引用した文言を次の点で批判するということです。この前提なしには共感はあり得ません。細かく見ればいろいろあるでしょうが、ここではとりあえず2点だけ挙げておきます。

1.「神はその霊も創造したと話しています(アモ.4:13注釈を見よ)。」⇒これは文脈を無視した無理な解釈。この場合の「ルーアハ」は「風」と訳して然り。
2.「聖書には度々神が"彼の霊"と話してその霊は人格的神でないことをが充分立証している」⇒そのような記事を文字通り解するのは誤り。「霊=神」ではなく「不可分」と同時に「不可同、不可逆」があり、霊が人格神でないというのは当たり前のことだが、神がご自身の霊と対話するということも誤解である。神の霊は神ご自身の意志の働きであることを示しているのであり、霊そのものが人格的存在という意味ではない。「神(の)霊」は言わば「神」の分身なので、神の人格性が反映されるのは当然なのだ。表現方法として類比とか比喩、特に擬人化があることを重視しなければならない。生ける神は聖書啓示に於いて、人間の受容としてそのような方法を許容しておられることは旧約聖書の特にJ資料に明瞭(http://www8.plala.or.jp/mihonda/Yahwist.htm)であり、新約聖書では特に(「神」ではなく「(対)神関係」の)啓示者であるイエスのたとえ話から推察される。「神」に「身体」性を認めることはモルモン教のように明らかに聖書啓示から逸脱することだが、「神」に何らかの「実体」性があることまでも否定するのは行き過ぎ。目には見えないとは言え、イメージも出来ないワケのわからない存在では人格的関係の対象性を持ち得ない。しかし、このサイトでは「神人同形説」を採っています。

神が実際形体を持って、触知出来る人として現れたことが威厳と栄光のある聖書の主題であります。またそれはイエスが神のみ子であると言うキリスト教の基本教義でもあります。もし神が形体を持つ存在でないとすれば、"彼の本質の姿"であったみ子は持つことが出来なかったでしょう。多くの人たちの観念になっているように、もし神がただ宇宙の空間のどこかにある一すじの鬼火のような存在であるとすれば、人間が神と人格的関係を持つことは出来ないでしょう。宗教の大部分が神に関してそのように触知出来ない非実在的存在であると言う観念が人類に悲劇をもたらしているのです。(中略)新約聖書の約束はみな形体的、人格的神を立証する旧約聖書の重要な背景の上に立てられたのです。もしキリスト教が聖書全般に基づいていることを私たちが本当に理解しているとすれば、神の本性を認識するのがその基本であると強調しないはずがないのです。旧約聖書は首尾一貫神の人格に関して話してます。旧約聖書と新約聖書両者が話している神との人格的関係が真のキリスト教信者のユーニクな望みです。次の句節は神が形体的、人格的であることを強く支持している論処です。(中略)"神はまた言われた。私たちの形に、私たちにかたどって人を造ろう"(創.1:26)。このように人間は天使たちを通して、神の形に、形どつて造られたのです。ヤコブは"神に形どって造られた人間をのろっている"(ヤコ.3:9)と話しています。これらの言葉は人間の心に対して使用しているのでないのです。なぜなら私たちの心は生まれつき全く神から遠く離れており、多くの点において彼の義とは根本的に対立しているからです。"私の思いはあなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なると、主は言われた。天が地を高く越えているように、私の道はあなたたたちの道を、私の思いはあなたたちの思いを高く越えている"(イザ.55:8,9)。従って私たちが神から受けたその形とかたどりは一つの形体的ものに違いないのです。天使たちが地に現れる時はみな人間の形をしているのを描写しています。アブラハムは天使たちの訪問を気付かないで普通の人たちと思って彼らをもてなしました。人が神の形とおりに創造されたことは、私たちの形がその実際的対象である神をそれとなく示しているのを意味しているのです。このように私たちに反映している神は私たちが心に抱かれないあいまいなある者ではないのです。(中略)神の居所に関する描写は明らかに"神"が私的な居住所があるのを指示しています。"神は天にいます"(伝.5:2)。"ヤウェはその聖なる高き所から見おろし、天から地を見られた"(詩.102:20)。"あなたは、あなたのすみかである天で聞いて赦し"(王上.8:30)。これよりなおさら神が天の"御座"に座しておられると書いているのです(代下.9:8; 詩.11:4; イザ.6:1; 66:1)。このような言葉は天の領域のどこかに存在している不確定的な実体に対して使用することが出来ないでしょう。神は彼が地に現れる時天から"降りる"と話しています。これは神の天の居所を示唆しているのです。神の人格的、体形的本性の認識がなければ、"彼の現れ"は到底理解出来ないのです。(中略)神が実際人格的存在でなく、幽霊的な者であると考えているのは神を正しく認識していないのです。神は全く正義でありますが、もし彼が形体的存在でないとすれば、人間たちに現れた彼の正義は認識することが出来ないのです。背教的キリスト教界とユダヤ人たちは神が私たちを彼の精神的形象に造って、彼が受け入れられる者とするために彼の正義が一つのあいまいな聖霊を通して私たちの生命体に入ると言う観念を持っています。それとは反対に、私たちが神と言われる人格的存在を一度認識すれば、彼の助けと彼の言葉の影響によって、私たちが神の特徴を私たちの人格に反映する作業をするのです。神の目的は彼自身が誉めただえられる多数の者に現れることです。記念すべき彼の名前、ヤウェ.エロヒム(Yahweh Elohim)は"He who shall be mighty ones"を意味しています。もし神が形体的存在でなければ、忠実なの者に与える補償はその神のように形体のない存在となるのでしょう。しかし神の国がこの地に設立されてその忠実な者たちに与える補償に対しては、もはや人間性の弱さに支配される体ではないですが、やはり私たちが触知出来る形体的存在であることを示しています。ヨブは彼の体が復活される時の"後の日"を切望していました(ヨブ.19:25ー27)。アブラハムは"地の塵の中に眠っている者のうちから、多くの者が目を覚まして、永遠の生命にいたる"者の内の一人(ダニ.12:2)であるに違いないから、彼はこの地で住むと約束されたカナンの土地を永遠に受け継げることが出来るのです(創.17:8)。"その聖徒たちは声高らかに喜び呼ばれるであろう。...その床の上で喜び歌わせよ。...もろもろの国を審判するであろう"(詩.132:16; 149:5、7)。ユダヤ人ちと異邦人たちが皆このような実際の重要な句節と、アブラハムに約束した身体的重要性を認識そこない、人間の真の形象が"不滅の霊魂"と言う間違った観念に導かれました。そのような観念は聖書の立証を全く欠いているのです。神だけが不死の栄えある存在であり、将来この地に設立される彼の国で、身体的形象で現れる、彼の本性を共有して住むように人たちを呼び出す彼の目的を完成しているのです。(中略)私たちは不完全な形象であるから、彼の精神的形象に発展して神の王国で完全に彼の体形的形象にならなければならないですけれども、私たちが神の実体的形象であること、神が人格的存在であることが認識されるまで、彼に対する自覚した礼拝、また宗教、或は人格的関係は出来ないのが明らかです。」(〜「聖書基本知識」)
http://www.biblebasicsonline.com/japanese/01/D01.html
http://www.biblebasicsonline.com/japanese/01/0102.html

Uコリ3:17の「主は霊である。」は「キリスト=聖霊」(第2位格=第3位格)を意味するものではないでしょう。青野太潮氏は、Tコリ15:44の「もし自然的なからだがあるのなら、霊的なからだもまたあるのである。」についての注で、「パウロにとっては、『からだ』をもたない存在は考えられなかった。」と述べているので、この「主は霊である。」もその「霊」の後に「的なからだ」が省略されていると見る方がいい。そうでないと次の「主の霊」とつながらない。「霊」は「主=キリスト」に充満しているので「本性」とも言えるし、また「属性」とも言える。そもそも「主は霊」の「は」という訳語が問題で、その後に「主の霊」という言葉が次節にかけて繰り返されていることを考慮するなら存在論的、同格的意味ではなく、「神は愛」が「神は愛に満ちたお方」ということを強調する修辞的表現であると解することもできるように、「神は霊」も「神は霊的なお方」ということの強調表現とも解し得るように、この「主は霊」も「主は霊に満ちたお方」ということの強調表現であるとも言えるだろう。

その点では新共同訳と塚本訳には無用な言葉が付いている。
新共同訳:「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。 」
塚本訳:「(ここで)主(と)は御霊(のこと)である。主の御霊のあるところには自由が(あるから、ベールが取り除かれるので)ある。"」
この「ここで(いう)」とか「のこと」といった余計な言葉が、解釈の幅を失くしている。これは完全に存在論的な意味で「キリスト=聖霊」と解釈した訳になってしまっている。その他の訳には解釈の余地がある。
口語訳:「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 」
新改訳:「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」
青野訳:「主は霊である。主の霊のあるところには、自由がある。」
川端訳:「さて主は霊である それで主の霊が(ある)ところに自由が(ある)」

<「主は霊である」の背後には、「知恵」が人格的な存在であり《霊》である、という理解がある(知一・六、七・七、二二参照)。>(新共同訳新約聖書略解)ともいわれているが、パウロはキリストのことを「神の力」とともに「神の知恵」とも呼んでいる(Tコリ1:24)。「神の力」はTコリ2:4〜5との関連で、「神の霊」(の働き)であり(「力」と「霊」とはペア→ガラテヤ3:5他)、その意味で「神の力=神の霊=キリスト」という図式が成り立つ。その場合の「霊」は三位一体の第三位格の「聖霊」とは区別される。つまりその「(聖)霊」自体が人格神なのではなく、人格神の力としてその神の人格性を働きの中に現出するのである。だからエホバの証人の「遍在」説のように、私も「遍在」しているのは「神」ご自身ではなく、その「霊」だと思う。

今も「神の力によって生きておられる」(Uコリ13:4)といわれるキリストは、「十字架につけられてしまっているキリスト」(Tコリ1:23)であり、ガラテヤの信徒の心にはそのような姿のキリストが「公けに描き出された」(ガラテヤ3:1)というのだから、これは現在のキリストの姿を集団幻視的に直観したことを意味するのではないだろうか?「神の右(の座)」は場所ではなく、ある種の権威とか優位を象徴するようだが、あえて現在のキリストの姿を問うなら、それは霊的な体でありながらも十字架につけられたままの(復活の)体であると言える。すなわち復活体は十字架につけられた体と同一ではないにせよ全くの別ものではなかったということ。そこには非(不)連続の連続があり、これによって使徒的ケリュグマはかろうじて歴史性を保ち得ている。

また、このような文言もある。
「日本人の小生が諸論文を読むと、そこにはまったく無批判に前提されている公理があることに気づく。その公理とは、「神とは肉体を持たない霊的実体であり、全能にして全知の宇宙の創造主、道徳の源泉である完全な人格である」というものだ。神の存在の反対者は、そういう存在には矛盾があり、したがって存在は不可能だと主張する。神が全能なら、なぜ世界は不条理で悲惨なのか?神の全能と人間の自由は両立するのか?神は、自分でも持ち上げることができないほど、重い物を創造することができるか?それらの疑問に対して、援護者は理屈をこねて反論する。すべては、この公理を前提しての擁護であり攻撃である。ここでは、その公理を批判しようとは思わない。問題にしたいのは、神についてのこの公理が、神の概念なのか、それとも神の観念なのかという点だ。答えは云うまでもない。それは神の概念である。キリスト教有神論の神の概念の1つだ(キリスト教と一口に言っても色々あるので)。(中略)神の観念とは、絶対的なもの、究極的なもの、永遠的なもの、完全なもの、無限なものについての観念である。絶対的自己という近世以来おなじみの欧米的理想が神の観念に投影されると、通俗的キリスト教の神の概念になる。西田幾多郎のように、禅的無が神の観念のスクリーンに投影されると、「絶対無」という神の概念になる。無神論者は、絶対的なもの、究極的なもの、永遠なもの、完全なもの、無限なものについての観念に基づいて、ある特定の神の概念の非絶対性、非究極性を暴露するに過ぎない。無神論者が、神の概念を否定できるのも、神の観念のお陰なのだ。宗教哲学の課題は、無神論者の関心を、神の概念から神の観念に向けさせることである。人間の謎と神の観念の謎を解くことは、同じことである。なぜ人類には、神の観念が備わっているのだろうか? 」(〜「非宗教的なキリスト教思想」の「なぜ宗教は消滅しないの? Welcome to my column」、「神の概念と神の観念は、別物です。」)
http://www.geocities.jp/tillich1965/
http://www.geocities.jp/tillich1965/Performance92.html

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